本能寺の変、戦国史最大の暗号「本能寺・コード」は実在する!!
日本史の真実
■戦国史最大の暗号、本能寺・コードは世に実在する!!■
それを私ははっきりと、世の中に、世の全ての研究者に、歴史に真実を求める人々に宣言しておきたい。それは、世界史にも類例がなく、まさに世界に誇れるものかもしれない。また巧緻であり、日本独特のものである。
かって世界は、ダ・ビンチ・コードというフイクションの暗号に騒いだが、本能寺コードの方が私にははるかに面白い。
なぜなら、それは国家の歴史を変えた事件に係わっている本物だからだ。本能寺の変なくば、豊臣秀吉は存在せず、また徳川幕府の二百六十数年もなかったかもしれない。明治維新の変動もあったかどうか疑わしい。そうではないか?
それほど影響のある歴史の転換点だったのだ。
なぜ、その事変の真実を示す暗号が、四百二十年近くも今まで存在した知識人の全てに発見されなかったのか? それは、本能寺の変、天正十年六月二日早暁の京都本能寺における織田信長襲殺事件は、明智光秀の身勝手な怨恨か、野望が原因とされるものであり、背景関係などはなく、従って暗号などは存在しないとする大きな思い込みによるものである。
また先にも書いたように一通の手紙が存在した。親戚細川幽斎[当時藤孝]に宛てられた明智光秀の援軍要請の自筆手紙である。勿論、これは一流の参考文献には必ず載せられているものだから、研究者は皆知っているだろう。
「援軍もなく、皆に見捨てられた明智光秀が丹後領主の娘婿細川家に、泣いているかのように協力を求めた」とされ、内容も、文章も乱れているとされている。光秀自身の後悔と絶望を表しているかのように、、、、、、。
冒頭には「覚」、末尾には「光秀」の署名、花押、、、、
日付は六月九日。天王山の戦いの四日前である。
内容は、簡単に書くとまず細川親子の出家を仕方ないものとし、光秀も立腹したが、よく考えれば、それも当然かと納得する。しかし、こうなったら大身[重臣]でも出してくれないか、との嘆願。
次が、褒賞とする領地は摂津を用意している。但馬、若狭が望むならそれもいい。必ず貴方優先に差し上げる。
最後に、光秀が全く予想外のこと[原文では、我ら不慮の儀]をなしたのは忠興などを取り立てるためであり、他の考えはない。五十日、百日以内では近畿などの情勢も安定するだろうから、その後は十五郎[光秀の長男]や与一郎[忠興]などに引き渡して引退する。詳しいことは二人の使者が申し上げる。
原文「我等不慮之儀、存立候事、忠興なと取立可申とての儀ニ候。更無別条候」。
不慮の儀、これは動かしようがない、、と多くの博士、学者、研究者が考える。だが、これは穴なのだ。
細川幽斎は、ただこの手紙を差し出しただけに過ぎない。前後の手紙、たとえば一通目の原書は無いのだ。脈絡の無い自筆の二通目のみを見て、皆が勝手な解釈をする。そして、原書が存在しない一通目には次のようなことが書かれてあったと細川家の記録にはある。
「信長、われに度々面目を失わせ、わがままのふるまいのみこれあるにつき、父子ともに討ち、長年の鬱積を散じた。貴殿にあってはさっそく、人数を召し連れられ、早々に上洛あれかし、摂津[大阪]がさいわい欠国でありますれば、ここを御知行なされよ」
大名家の記録を疑うものは無いだろう。かくて本能寺の変に背景、暗号は絶対に存在しえない、、、、。
だが、これの否定は簡単である。細川幽斎によって差し出された証拠は、細川幽斎によってのみ簡単に否定されうるのだ。彼は知っていた。信長が殺された本当の理由を、、、、。従ってこの手紙を出す必要があったのである。なぜなら、彼の先祖東陣細川勝元は一四六七年の応仁の大乱で北朝の後土御門天皇を旗印としているのである。[対する山名宗全は南朝小倉宮血筋の岡崎前門主]。
細川幽斎が貴族と深いパイプを持ち、後に歌の秘伝を伝授されたことは知られている。後の関が原のとき、丹後宮津城で西軍の大軍に囲まれての落城の危機を、歌の秘伝が絶えると朝廷に勅命で助けられたのは偶然ではないのだ。
では、いかなる証拠品によって、明智光秀の自筆手紙は何の役にも立たなくなるのか? それは後に細川幽斎が京都に上り、本能寺焼け跡で開いた信長哀悼の連歌会においてである。
この有名な連歌会は、あの作家司馬遼太郎氏もその著作などで言及しているから、知らない人はいないだろう。この哀悼会に、当時の京都の有名人、貴人、富人は皆混じっていた。
その中で、細川幽斎は一句を発す。
「墨染めの夕や名残り、袖の露」、
実は、これだけで充分である。
二句は道叱の「魂まつる、野の月の秋風」、、、
「秋風」これに注目して貰いたい。、、、これは厭き[あき]にかけられて厭き厭きしたとされる言葉であり、まさに哀悼の席の句にふさわしくない嫌悪言葉なのである。幽斎はそれをこの歴史的な会の二句目に許した。
では「魂まつる野の月」とは何なのか?
ここで、頭のいい人なら織田信長の最初の戒名、記録や絵の裏にある「天徳院」を思い出すだろう。天徳年間は災いが相次ぎ、三年で終わった。理由は「天徳は火雷天神の号にして忌むべし」であることは前にも述べた。火雷天神とは菅原道真公ともその眷属ともされる言葉である。菅原道真公の神号は「太政威徳天」でもある。
そして、その怒りを表すお姿は「天満大自在天神」であるという。また牛年に生まれ、牛を大事にし、愛されたことから「牛天神」なる言葉もあるのだ。では、牛は何で象徴されるのか? インドの牛崇拝と暴風雨神ルドラの合体であるヒンズー教の大主神シバは三日月で表されるのである。
三日月は、その形から剣や牛角にたとえられる。
勿論、菅原道真公は徳の高い方だから、人にたたられるなど思いもよらなかっただろう。まさに公には迷惑な話である。しかし、その怒りのお姿をこの破壊神シバ神[仏教に入り、大自在天、象徴は仰半月]にかけて見たがる人々もいたのである。そう、月にである。
「魂を祭る野[田舎の意がある]の月、それに飽き飽きである」、とは何なのか?
勿論、十一面観音[菅原道真公の本地物]を、総見寺に自分の本尊として飾った信長にあてられているのだ。
原点は、魂が神社に祀られ、月で象徴されるあの天の神となったお方である。
では細川幽斎第一句の「袖の露」とは? 意味は、「深き悲しみの涙」であるが、露には別名「月のしずく」があるのである。梅雨が後につゆ、と言われたのは梅と露にかけられたからである。
「月のしずく」、これなのである。
これが「袖の露」、深い悲しみになったものよ、、、二句秋風をそのまま残した幽斎のこころ、なのだ。
梅雨、ちなみに梅は天神様の象徴、雨には涙、矢、事変の意があることは知っておられるだろう?
明智光秀の日本一有名な句「ときは今、あめが下知る五月かな」は何の日に、何を詠んだものだったのか。梅雨である。幽斎の句は、そのしずくに掛けたものなのだ。
「細川幽斎の出した証拠は、幽斎自身の態度、句によって否定されるのである。
今までの説への補足も述べておこう。文字と言葉は昔、神だった。
それは神の意思を伝えるものだった。
■天徳院。織田信長の「信」の字は何処から来たのか? 実は天徳院から考えると簡単である。京都北野天満宮の祭り神は菅原道真公だが、名は何故かそうなってない。由緒書きによれば「道信」なのである。大宰府天満宮では道真公だが。「道信」、これはよく史料を調べれば解る。そして、安土にあった清涼殿そっくりな建物、道真公が怒りの落雷をしたとされるのは「延長」八年である。
■神器が奪われた嘉吉三年の「嘉吉の変」の首謀者の一人は「尊秀王」という。ところで、「秀吉」なる名はどこから来たのかさっぱりわかっていない。
■信長の嫡子信忠、信雄を産んだ側室の名は、吉野とも書かれている。
■岐阜、岐山から国を起こした「周」には[まこと・忠]の字義、意味がある。南朝最後の王は自天王、忠義王。
織田信長の嫡子は信忠。岐阜。
■その自天王の名はどこから来たのか不明である。しかし、日本で普通、天王というときは八坂神社の祀神、牛頭天王を指すことが多い。また聖天には「大聖歓喜大自在天王」の別名がある。
いずれにせよ、本能寺の変には、戦国史最大の暗号、本能寺コードが実在する。それを私は、ここにはっきりと言っておきたい。この前映画「コロンブス」「1492コロンブス」を見たが、コロンブスの偉大さは、迷信や偏見にとらわれずあるべきものを推理、発見し、それを実証したところにあるという。では、なぜ、その繊細を私がここに書かないのかというと、その主な内容は此処に書かれているからである。
■本能寺の変は、本物の聖戦であり、朝廷説であり、明智光秀の軍事同盟者は柴田勝家である、これ以外の答えはない。
織田信長はおそらく下克上の仕上げとして京都を手に入れる最終目的があったであろう。その場合、帝位、朝廷がどうなったかは、信長の考えひとつだったはずだ。勿論、明智側の人々は、はっきり帝位に欲があるらしい、と考えているが。
本能寺の変の大謎とは何だったのか?
それは事件が起きたのが怨恨か?、野望か?、それとも背後に黒幕がいるのか?、いるなら誰か? 動機は?、連絡方法は?というものだったはずだ。
私が研究を始めたとき、光秀は武田氏残党説と組んでいるというのが有力だった。その他の説は明確に理由が述べられ否定されていた。
朝廷説は? 綸旨が出ていない、光秀が官軍と明言していない、内裏に記録が無い、神官吉田兼見の日記には謀叛と言葉がある、などである。
だが、大軍[賎が岳では二万八千を動員した]を保有する柴田勝家が組んでいる以上、光秀は京都周囲を固めて待てばよかったのだ。誤算は、秀吉の存在だけだった。[いや、前田利家という気になる存在が後から柴田家中からは浮上してくるが、、]、私はここに、あなたが本能寺コードを見つけても、それは傍証にしかならないことも宣言する。ここと結論は全く同じ事を書くことになるだけだろう。少なくとも大筋は必ず似てしまう。
いずれにせよ、戦国史最大の暗号、本能寺・コードは世に実在する。
本当は、日本史二千年最大の暗号、世界史にも希なる本物の暗号としたい、、、が、日本には、まだ幾つか巨大な暗号が存在するらしいので、遠慮しておこう。
■勿論、世に勘違いされないように注意しておくが、それは決して私が捏造したり、偽造したものではない。戦国時代の明智光秀の崇拝者らが、光秀の行いを偉業と信じ作ったものだ。
それに先鞭をつけたのは「聖戦、マハーカーラの女」大庭博著という書物である。これに初めて細川家所有の明智光秀の自筆手紙に匹敵する証拠が出た。
また今までこのブログに書いたことは、この本の補強にすぎない。それは、本物の本を読んだ人にはよくおわかりだろう?
私はここで嘘は全く言っていない。道信と延長、天徳院、十一面観音も、細川幽斎の二句も世に実在する。
日本史の地軸を大転換させた事件の真実、
それは、まさに日本史で唯一無二の巨大ダイヤではないのか?
それを発見し、提唱し、主張するのが、なぜ民間研究家の私であってはいけないのか? いかなる歴史の謎もいつかは解かれる筈だ。それが民間研究家の私であってはいけないという掟でもあるのか? 最大の歴史の謎を解明するのは、東大か有名大学の教授、ノーベル賞受賞者、或いは直木賞、芥川賞作家でなくてはならない訳でもあるというのか? そのようなことが自由・平等を尊重する言論世界なら、あっていいはずもない。
民間研究家の諸氏よ、なぜ、民間研究家の私であってはいけないのか?
歴史の真実、歴史では真実のみが価値を持ちうるはずだ。そして戦国史最大の暗号の価値は計り知れないだろう。
私はその解読の書物を八十冊所持している。この本、色々、偽物、偽造やトラブルがあったので本物はここしかない。
サイン入りの本物を一冊、三百万円で、ビッグ、キングといわれる人に買ってもらいたい。そのひと、会社のみに出版権、映画化権をオークションで売ることにする。
日本史で唯一無二の本物のみの持つ強みである。私は、この手に持っている物が正真正銘の本物、二千年の真実の品物であることを誇りに思う。全てに嘘はない。この書物「聖戦、マハーカーラの女」大庭博著を否定する物、否定する者が虚偽なのだ。
この説への反論は必ず突き崩して見せよう。本能寺の真実の暗号を知る私にはそれが出来る。
日本歴史の唯一の真実にはいかなる権威、博士、学者、教授、たとえノーベル賞を貰った学者でも反論は出来ない。なぜなら、必ず虚偽にはポロ、矛盾点が出るからだ。
もしこの本を否定したければ、その反論史料、証拠品、学者、論文を正式に提示し、実名でここに、こちらこそ本物、真実と断言してみせるように。
さて、連絡先は本人確認が確実になされている次の銀行口座のみである。他では決して、いや絶対に買わないように。本の送り先を添えておくように。
■西日本シティ銀行、店番号003
普通預金口座番号1739448 名前 大庭 博。
西日本シティ銀行。
店番号003 普通預金口座番号 1739448。
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