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検証 本能寺の変、逆アリバイ説!

■織田信長最大の真実■
天正十年六月十五日、この日、安土城天主閣は謎の出火により、大炎上をして消失する。この六月十五日は「天王祭」、中部地方などでの牛頭天王の大祭日。

ところで宣教師フロイスは、次男の織田信雄が火を点けたとも書いている。「天王祭の日」に、信長の象徴とも言うべき安土城天主を焼く。すると、そこには、また別の意味が出るのかもしれない。

■明智光秀アリバイ説■
かって、信長殺しは明智光秀にあらずとし、光秀のアリバイを主張した人がいた。作家の八切止夫氏である。説によれば悪天候、豪雨により光秀は連歌会を開いた愛宕山から下山できず、その間に家臣の斉藤利三が信長の妻、濃姫の命令により勝手に軍を動かし、信長を討ったとする。その理由は、悪妻排除に対抗して、というものである。勿論研究家には酷評されているが、注目するべき逆の点に私は気づいた。

それは、もし本能寺に黒幕などがいたと考えた場合、「彼」は現場か、その近くにいたがるのではと思える点である。もし貴方が自分の全財産、一生どころか、命を賭けた相場をどうしても張らなければならなくなった、としたらどうだろう? 信頼できるプロに運用を任せたとしても、遠くはなれた場所でのんびりできるだろうか? 

むしろ一刻も早く結果を知りたいとか、プロがうまく行かなければ、何とか自分で修正できるところは修正したいと考え、側に居たがるのでは? 少なくとも、勝負場から遠く離れた場所にいる気にはならないだろうし、どうしても遠くに居なくてはならない立場になったとしても、一刻も早く結果を知るために、連絡役を何人も用意しておくのではないだろうか? 
そして、できれば相場、勝負を自分である程度、有利にコントロールしたいと願うのではないだろうか? その場合、自分の血縁、親類の多い場所を選ぶのが絶対に有利である。相手が大物すぎ、勝負が確実に命に係わる場合、なりふりは構っていられないだろう? 

そういう目で、幾つかの本能寺の黒幕といわれる人々の様子、反応を見てみよう。まず信長に追放された前将軍「足利義昭」であるが、この人の反応は鈍すぎる。彼が組んでいたら、少なくとも光秀が沓掛で軍を京都に向けた時点で、何らかの連絡網が動いて謀叛の第一情報をいち早く毛利に届けていなければならないはずだが、それがない。光秀も謀叛の誘いを受けていたとしても、あまり連絡の取れない相手を信頼し、そのために動くとも思えないのだが。

次に、よく言われる「徳川家康」、信長が自分を警戒し、何時か外様として滅ぼされることが分かったから、、、となるが、そうなら京都に居て、いち早く信長の死を確認した方が有利なのでは? また、こっそり光秀に自国三河に帰る為の馬や護衛など借りられるのでは?とも思える。光秀と組んでいた、など、兵を合わせてに戦わない限りは、よく外部には解らないだろう。しかし、実際は堺見物しており、よく信長の死も確認しないまま、伊賀越えで逃げているのだから、殆ど無関係となる。

他にも、キリシタンの陰謀、堺商人、高野山、本願寺勢力、キリスト宣教師など色々と黒幕は言われるが、頻繁に連絡を取っているか、現場近くで、すぐに新情報を入手できるような充分な手配り、人配置をしていたか? できたか?となると疑問は多い。
普段見慣れない目つきの悪い連中、どこの者かよくわからない人々が、本能寺や、妙覚寺付近をうろついていたら、盗賊の多かった時代、妙な疑いを掛けられ、捕縛される可能性すらある。

しかし、京都で疑われずに情報を収集できる人々もいる。普段見慣れた人々、家を持つ住人である。朝廷、貴族の人々を前提に推理してみると、どうなるのか? 何か、この心理点にピッタリくるような気がしてならないのだ。
知ってのとおり、京都は数百年も都の続いた場所である。そこでどのように人脈、情報網が繋がっているかはよく解らない。しかも狭い地域なので、当然、色々な商売や友人、縁戚関係はあると見るべきだろう。

また寺、神社が多く、法事や葬式、行事の集まり、茶会、連歌会、本の講義などの集まりも多い、必然的に知識階級の顔見知り、友人も多くなる。縁戚関係なら、信長の近来の行いについて多少非難をしても、安心できるだろう。
さらに、京言葉、貴族独特の言葉もあるという。他の地方の武士が側で聞いていてもよく解らない言い回しもある。
古書、歴史書の講義などもある。例えば光秀は細川藤孝、里村紹巴と丹後に遊び、源氏物語の本読みを楽しんだというのだが、信長をそれらの登場人物の誰か、平家物語の悪人の誰かに例え、悪口、非難を言ってても、それらにうとい他人にはよく解らないことだろう。

そのように、さりげなく読書会、連歌会、茶会で陰謀をめぐらす事は可能ではないだろうか? 平清盛について書いていた文書、手紙が実は信長打倒の事。それらの文書は証拠に見えるだろうか? なるだろうか? 
光秀はそうやって頻繁に読書会などで連絡を取る。また重臣たちを説得するが、彼らは半信半疑だろう。だが、ある日、彼らも知る前関白の大物が亀山か坂本城に遊び、本読みにやってきて用意と勝利を確約する。勿論、それはあくまで「平家物語の中の源氏の勝利」である。

だが、京都近郊沓掛で重臣たちは、そのときに来た大物の従者の顔を、道案内として見ることになる。

重臣たちは、光秀の言葉どうりに信長、信忠が京都で討て、安土城が無血開城したこと、大阪の四国渡海軍が四散し戦力消失したことで信頼する。

だが、ここでひとつの誤算が生じていた。信長の死体が本能寺で発見できず、その生死が不明になったことである。その苛烈な性格、報復の仕方は知られている。さらに織田家には次男信雄、三男信孝、柴田、滝川などの遺臣団の大軍も健在である。その為、光秀は朝廷からの勅命、令旨を公表しなかった。この前の南北朝の長い争乱は知られているし、光秀としては事態を複雑化することを好まなかった。

変当時、織田の重臣は彼方此方に散らばっているので、信長の死が伝われば敵と交戦したり、私欲から同盟したり、独立したりし、分裂するのではないだろうかと光秀は見ていた。

そして、それらの変の連絡、秘密文書、手紙は平清盛討伐の話として、読まれても気づかれずに残っている、、、。

人はその勝負の現場に、近くにいたがるという心理的に見る推測、、、

だが、京都、ひとつの戦場、地縁、人間の心理を考えると、なんとなく可能性は高いとも思える。光秀はその細川家への手紙によれば五十日から百日で近国の情勢は安定するだろう、その後は引退すると書いている。これは安土城、坂本城、亀山城なる堅城を持ち、京を保持し、一万五千から二万ほどの軍を集めえると考えている大名には、ちょっと欲が小さいように思える。

しかし、逆に考えれば、彼は近畿圏では確実に勝てると考えていた節があり、それは、やはりこの辺りなら充分な地縁と情報が得られるので、殆ど負けがない、と考えていたからではないかとも思えるのだ。

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検証、本能寺襲撃への道すじ! ひとつの名前!

■織田信長最大の真実■
天正十年六月十三日、明智光秀と羽柴秀吉の山崎天王山決戦日。この日は昔、京都などの祇園祭、牛頭天王の祭日。昔は六月七日から十四日まで。普通「天王」というときは牛頭天王を指す。この日と天王とつく場所が何故か決戦に選ばれた。

■検証・明智光秀の本能寺襲撃方法、計画はプロか、アマか?■
ひとつの人生を左右する事件、その手段には起こした人間の性格、履歴、知性、行動力などが反映することが多い。例えば泥棒、詐欺師、殺人者などは同じ手口を繰り返すことが多いという。なぜそうするかは本人もよくわからず、ただ、そうしていれば安心できるからだという。不思議な話だ。何かそこには運命めいたものの匂いすらする。では一国の運命を左右するような事件の場合は?精緻な傑作だったのか?ただのやっつけ仕事だったのか?

明智光秀は六月一日の夕刻丹波亀山城の東、野条より完全装備の一万三千の軍を発した。軍は三分隊に分けられ、午後九時だった。夕刻の進軍は敵地などでは危険なのであまりしない。勢力圏でもよほど急ぐ必要がある場合に限られる。部隊編成後、光秀は首脳を集め、軍議を行っており、ここで重臣、とくに斉藤利三、明智秀満らに謀叛を打ち明け、念入りに主旨を言い含めた、という。亀山城から京都までは二十キロ足らず、夜間の移動、早暁の本能寺襲撃、その後、側の妙覚寺の織田信忠を討つとの手順になっていたという。一万三千の軍は二列縦隊になればおよそ七キロ。京都近郊老の坂に午後十時半、その先の西国と京都への分岐点沓掛に十一時から十二時ころに到達、このとき小休止し、兵糧を取らせた。

その後、先鋒隊長安田国継を発進させる。軍を四・五キロ前進、京都桂川西岸で戦闘用足半草履にさせ、連続射撃用の火縄を鉄砲隊に用意させる。桂川を渡った時点で信長、信忠討ちの布告が兵になされ、部隊は千本通り、大宮通、姉小路通り、新町通りに別れ、二・五キロ北進、午後四時には大半が本能寺に到達、攻撃した。
先陣を指揮したのは斉藤利三で、「旗さしものが引っかからないように、木戸は押し開いて通るように。思い思いの道を通り、本能寺の森、サイカチの木、竹やぶを目指せ」と言ったと「川角太閤記」にある。織田信長、信忠は全く気づかず、この後本能寺、二条城の戦闘で切腹する。
全ては計画的なのか? ただのアマチュアなのか?

私が時々思うのは、光秀が怨恨、野望いずれにせよ、京都で信長を殺す必要が絶対にあったかという疑問である。過去に幾つか主殺しなどというものがあるが自城への誘殺、毒殺、あるいは一見それとは解らぬような事故死、戦死などというものがよく使われているような気がする。例えば、信長が毛利としか思えない部隊の奇襲で、原野で死んだ、というシナリオでも動機がただの個人的な怨恨、野望ならば別にかまわなかったような気がする。だが、光秀は名を汚すにしても、京都本能寺という場所、其処での襲撃を選んだのであり、そこには何かそうでなくてはならなかったものがあったのかもしれない。

検証として、まず老いの坂、沓掛での小休止を見てみよう。道の分岐点で兵を小休止する。そしていきなり京都に向かう。ここで何らかの報告を受けたのは間違いない。するとここまでは中止可能だったのでは? となるとよく言われている別方面から逃げ道を塞ぐために京都に入った分隊は無いと考えられる。そして、この後、明智軍は道に迷わず行動している。どう考えても誰か京都に詳しい道案内が数人来ているのではと思える。
この変で、何が一番重要なのか、信長が女遊びなどに行かず本能寺に確実にいることだが、六月一日、内裏を空にするほどの貴族の訪問、信忠、京都所司代室井貞勝の挨拶、囲碁の名手の観戦をし、彼は確実に本能寺に居た。それを確実に知ったからこそ、迷わず行動した、としか思えない行動である。

また斉藤利三の言葉にあるように、当時町境には盗賊よけの木戸があった。この盗賊よけの木戸の開閉のことは研究家、細川廣次氏の本「信長は誰か」新人物往来社に詳しい。が、これらの木戸は大軍には大変な障害になる。あの有名なナポレオンのワーテルロー会戦の時には、ちょっとした垣根、切り通しの小路が大軍の大変な通行障害になって多くの犠牲者が出た。ところが、光秀軍にはそれらが全く邪魔になっていない。となると? これらの道案内は京都木戸の開け閉めにも顔が利くとなる。

さらには桂川を渡った時点で、戦闘用草履、火縄の用意をさせた兵士らが動揺をしていないこと。
街中に宿泊していた信忠の馬周りにも気づかれていないなど、アマ、やっっけ仕事にしては不自然な事項が相次ぐ。いやむしろプロの手口ではないか?

また火事の問題もある。当時火事はすぐに燃え広がり、非常に恐れられた。幾度も京都は火難に遭っている。これら火と煙は実は逃げるにも都合がいい。信長が火を点けよと命じたのも、そういう意図があったからかもしれない。ところが、本能寺、妙覚寺、二条城と炎上したにも係わらず、何も周囲の民家に燃え広がっていないことである。特に本能寺は燃え尽きるまで放置されていたというのだが。この点は、どういうことなのか? この後、残兵狩りが明智軍に行われている。敵がまだ居る中で明智の兵は消火活動をしたのか? 或いは完全武装の殺気に満ちた兵士らがうろつく場所、そこに町衆でもすぐに行ったのだろうか?

また二千の馬廻りを率いて妙覚寺に居た嫡子織田信忠が、京都から逃げられていない。私は前に沓掛での転進前に、逃げ道を塞ぐために別道に動いた別働隊はいないだろうと書いた。ではなぜ逃げられなかったか、それは木戸などが閉まっていたり、何処かからか弓矢などで射たれたからかもしれないのだ。その警戒から、二条城に篭ったのかもしれない。

ただ信忠が五百ほどの兵士を集め、篭った二条城攻撃は、明智軍にしては少しお粗末ではある。隣の近衛邸の屋根から鉄砲を乱射しての力づくである。だが、これは当時誠仁親王の座所であり、禁裏と同じ扱いだった城に立て篭もるなど、不敬、非常識なことをするはずがないという思い込みがあれば別に不思議なことではない。当時、天皇は天子だったのであり、まさに名を汚すような逃げを武将ならするはずはない、という前提が頭にあったのではないだろうか。

結論として襲撃はかなり完成されているのでは、京都に味方が居たのは確実ではと思える。普通は独裁者信長は常に巨城と五千の兵に囲まれている。逆に言えば、信長は五千の兵士、親衛隊から離れることはあまりない。これらの兵は野戦などでは信長ひとりを守る、逃がす為に常に訓練を受けているのであり、影武者、おとりの役目も喜んで受け入れるだろう。家康、信玄などにも敗戦時、喜んで成り代わって死んだ者がいた。信長は名馬一匹あれば、、、という立場である。だが、京都では全くそれが出来なかった。信長も、彼に何かあれば織田全軍の指揮をとれる織田信忠も何故か京都から逃げられなかったのであり、その理由のひとつとして、京都市民の多くが彼らを嫌っていたのではないかとの推測もある。信長は上京都を焼き討ちし、かなりの被災を出したこともあるのだ。

私はひとつの名前に注目する。明智軍先鋒隊長「安田国継」の名前である。織田信長一人を逃がせば全ては崩壊するのだから、明智軍先鋒隊は光秀に主旨を含められた必殺隊だった筈である。その彼が後に改名している。「天野源右衛門」と。光秀は土岐源氏だった。右衛門府、左衛門府、ともに内裏の門を守るとの役職である。そして辞書には「御門・みかどと読む。帝のことである」と言葉がある。

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ひとつの痕跡、本能寺には何が残っていたのか?

■織田信長最大の真実■
天正十年六月二日京都本能寺の変、「第六の月」+「二日の変」。
織田信長が武田信玄に宛て、第六天魔王信長と豪語する手紙を送った事はフロイスの記録などにより知られている。第六天魔王[大自在天]とはインドのヒンズー教の主神のひとりシバ神のことで、仏教破壊の神、その象徴は仰半月[シバ神は三日月がシンボルマーク]である。

「二日の変」、「天に二日無し、土に二王無し」中国「礼記」。
信長の主城は「安土」、この日に信長が死んだのは偶然か、そうではないのか?

■「痕跡、凶器、、、何が現場に残ったのか?」■ 
名探偵シャーロック・ホームス、金田一耕助、エルキュール・ポアロ、彼らが殺人、事件現場に来た時、まず屈んで虫眼鏡など取り出し、彼方此方と這い回る。そして皆があきれ返る中、どうでもいいような物を取り上げ、意味不明なことを言い出す。あの人、大丈夫ですか?と言われながら、終盤に来たとき、それらのどうでもいいような小さな品物、出来事が突然重要な意味を持ち出す。やがて被害者だった筈の美女の大復讐劇の真相が、、、。などと貴方も中学か高校時代に興奮しきった過去をお持ちだろう? 

しかし大半それは用意された手掛かりであり、実際の大事件に残される事は殆どない。本能寺の変の現場に何か重要な真相への痕跡はあるのか?と問われると? 「別にない」、と従来はされてきた。

いや、研究者たちに止めを刺してきた凶器はある。例の丹後宮津に居た細川藤孝[幽斎]への援軍を求める六月九日日付の明智光秀自筆の手紙である。本物と鑑定される署名と花押がある。この光秀絶筆の内容は孤立した身が悲鳴を上げているようだと評価され、思いつきでやった謀叛を後悔しきっているようだとされている。内容は、

一 細川親子の出家を怒るも仕方のないこととし、大身、身分の高い侍でも出して、協力してくれと頼む。
二 褒賞の国のことに触れ、摂津をやる。但馬、若狭がお望みならそうするとし、必ず貴方の希望どうりにする。

三 私が予想外のこと[原文では、我ら不慮の儀。つまり本能寺の変のことを指すとされる]を決意したのは忠興[幽斎の子]などをを取り立てる為である。他にはない。五十日か百日以内には近国などを制圧するであろうから、その後は十五郎[光秀の長男]、与一郎などに引き渡して引退するつもりである、仔細は二人の使者が申し述べる。

まさに文句のつけようのない思いつき襲撃の手紙。いったい何をもって本能寺の変にケチをつけることが出来るのか?せいぜい「ときは今、あめが下知る五月かな」の愛宕連歌会の初句をもじって野望説が怨恨かを論議するのがせいぜい。誰かが黒幕、背後にいた説など、論外。所詮、まともな説にあらず、、、、、、。絶対の研究者殺しの凶器。

しかし、本当になかったのか? いや痕跡はあった。奇妙なる矛盾、疑惑に満ち、そして仔細なることばかりではあったが、、、、、。

一 明智光秀は京都近郊老の坂で軍を小休止させ、何かを待っていた。そして、軍を突如京都に向けた。だが何があったのか? 誰か来たのか?は、全く無視された。

二 あるテレビ番組で研究された多量の兵の鎧の音は、なぜ京都に泊まっていた信忠の馬廻り、警備兵に気づかれなかったのか? 

三 京都粟田口などで神官吉田兼見、勅使勧修寺晴豊が出迎えようとしていた。それを信長が何故か知っていたこと。彼らは無用と言い渡され帰った。

四 六月一日、内裏を空にするほどの高位の貴族が本能寺を訪れ、深夜まで何かを長時間話し合っていること。

五 吉田兼見、勧修寺晴豊、御湯殿上日記などが書き直されたり、四散されている不思議さ。

六 前関白近衛前久の屋敷が織田信忠が篭った二条城攻撃にすぐ利用され、前久が光秀敗北後逃げ隠れしていること。

七 戦場の真ん中の二条城から出てくる誠仁親王の輿を愛宕山連歌会に参加していた連歌師里村紹巴が用意していること。紹巴は近衛前久の子飼いであった。また誠仁親王と光秀の間を何度も往復した吉田兼見も近衛前久の家礼である。

八 光秀の娘は細川忠興の妻であるが、忠興の妹は吉田兼見に嫁いでいる。そういう細川家から、光秀自筆の手紙は出た。

九 一番の疑惑は、謀叛を起こすほどの邪悪、利己主義なる筈の明智軍が京都で全く略奪をせず、皇族貴族を人質にとっての無理な官位、勅命の要求などもしていないことだろう。負ければ全て失うという状況の中で、この余裕は何なのか? 

だが疑惑、仔細な痕跡は絶対の証拠品の前では常に取るに足らぬ下らぬものとされる。細川家の光秀自筆、花押の手紙は、犯罪者の捺印のある自白調書、自殺者の署名入りの遺書にも匹敵するではないか! これは覆しようがない? 
いや本当にそうだろうか? ひとつの疑惑を述べよう。明智光秀は本当に細川家の兵力をあてにしていたろうか? 当時の細川家は丹後十二万三千五百石、一万石で二百人動員としても戦況を左右するほどの大名とも思えない。味方してくれればあり難いが、味方しなくてもそれほどの、、、と思っていたとしたら? 内容には真実を書いたろうか? そう思ってみると真実よりも、情に訴えている文のようにも思える。
では、明智光秀が、戦況の行方で、本当に当てにしていたような大名は他に居るだろうか? 手紙どころか、たとえ軍を動かしてでも味方させなければならないと思っていたような、細川家よりもはるかに重要人物。そして本能寺の変においても、何か重要な意味を持っていたと思えるような人物。

一人、、、、確実にいる。

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状況! 京都、本能寺での変は必然か? 偶然の産物か?

■織田信長最大の真実■
六月一日、この日は「天王降ろし」、祇園祭などで牛頭天王を迎える行事の日である。明智光秀は丹波亀山城からこの日の夕刻軍勢を発した。牛頭天王は鬼門[丑寅]のヌシとされ、薬師如来の化形身のひとつ。また薬師如来は寅、とらの日が縁日。光秀が出撃前、虎が雨、虎が涙の日に神に祈願した理由は何だったのか?

■「京都、本能寺の変は必然か? 偶然か?」■
ひとつの事件が起こった時、必然か偶然の産物か、それがいつも問題となる。例えば太平洋戦争で日本が四隻の空母を失い、完敗したミッドウェー海戦、ブーゲンビル上空での山本五十六大将の米戦闘機に待ち伏せされての戦死、いずれも最初はただの偶然の産物とされた。前者は偶然に米空母が付近におり、爆撃機と雷撃機に同時に襲撃されたために日本戦闘機は防ぎきれなかったのであり、後者は偶然にパトロール中の優勢な敵に襲撃されたための悲劇である。
だが、戦後、この二つの事件は暗号が解読されていたために計画的に襲われたのであり、いずれも慎重な作戦の勝利であったことが判明した。偶然か、必然か、その見分けはまさにそれ以後の歴史の見方、分析を左右するといって良い。

では本能寺の変は? 研究家藤本正行氏は偶然の産物とする。天正十年四月、木曾義昌の裏切りに乗じた信長の総攻撃により甲斐武田家が滅亡した。甲斐、信濃、駿河、上野などが織田領地になったことにより、有力武将河尻秀隆、森長可、滝川一益などが統治の任に当てられた。さらに毛利側の備中高松城を包囲していた羽柴秀吉、越後上杉と交戦していた柴田勝家、前田利家、佐々成政、また丹羽長秀と織田信孝は四国討伐軍二万五千と大阪、長男信忠は安土、次男信雄は伊勢松ヶ島、と織田の武将は分散しており、近畿は空白地帯だった。すぐに大軍を動かせるのは当時、家康の接待をしていた明智光秀とその配下の大名だけだった。

そして、この大軍の動員を五月十七日あたりの羽柴秀吉の援軍要請を受け、命令したのは信長である。その命令なくば明智光秀は亀山に軍を動員することもなかったし、信長を京都で襲うタイミングを得ることもなかった。つまり、偶然の重なりがチャンスを産んだ。その傍証とし、彼は陰謀の防諜の難しさを挙げる。陰謀に人が加担すればするほど、その秘密保持は難しくなる。陰謀の当事者、付き人、いろいろな目撃など気にする要素は多い。また人の口に戸は立てられないし、恩賞目当ての密告者の心配は後を絶たないというのだ。それ故、明智光秀の謀叛は、偶然の重なりがチャンスが産んだ。

この論理にはそれなりに納得できることがある。天下人信長に命に係わるような陰謀を密告すれば、その恩賞は莫大に違いない。それがなかったのだから、直前に思いついたと考えられなくもない。だが、軍事的に空白地帯かと言えば、安土には五千、京都にも二千、大阪には二万五千の完全装備の軍がいた。さらに光秀の配下大名が味方していない事など、その先をどうするつまりだったのだ?との疑惑もある。

では、変を必然とする見方はどうか? 
実は必然とすれば、まさにそうにも見れる時なのだ。武田家が滅んだ時点で織田家を滅ぼせるような勢力は見当たらない。この後、毛利が滅ぶか、降参するのは装備、兵力からも確実である。越後の上杉は柴田軍に押されているし、関東の北条も友好的態度である。どちらも京都に軍を進めるような余裕はない。四国の長曾我部も劣勢である。何よりも信長が毛利を討ち果たし、この際九州までも支配すると豪語した「信長公記」。

もし毛利が滅ぶか、織田に降伏し分割されたと仮定する。そうなると、仮に京都で謀叛を起こしても、援軍は九州、四国から呼ぶことになるが、移動に海軍、大量の船が必要である。しかし、瀬戸内海の水軍は毛利や織田が支配しているし、海を挟んでの充分な補給は長期、悪天候など考えると難しい。また九州はキリスト教が盛んであり、キリシタン布教に寛大な信長に、友好を示すキリシタン大名大友宗麟などもいる。正直、その辺りからの大援軍など京都まではとても期待できない。それどころか、毛利滅亡を聞き、なし崩し的に織田傘下に入る可能性もある。

しかし毛利が健在な時点なら? 中国地方の羽柴軍などは即刻交戦になり、身動きできなくなるとの推測もできる。毛利勢力がある、なしの時点の「変」では、織田家、周囲に与える影響がまるで違うのである。つまり、京、近畿でのクーデターが援軍、或いは何らかの補助を受けて成功する最終線ではなかったかと疑える節もある。

では、真実はどうだったのか? 
「真実」は、まさに最終ラインだったことを示している。なぜなら、これ以後は信長が京都、皇族、貴族を人質に取ったと同じ事になるからである。光秀の後に京都を任されるのは三男織田信孝とその軍だった。そうなると、織田家へのクーデターなどは殆ど不可能に近い。そうである。光秀の個人的野望、怨恨で京都で大軍は動かせない。
もともと光秀が、勝ち馬と決まった天下人信長を裏切る理由はひとつもない。信長についていれば一生は安泰である。とやかく言われる怨恨説の逸話、野心家の逸話も殆ど出鱈目、根拠無しが証明されている。光秀は同盟者家康の接待を任されるほどの立場にあったし、軍功、治安の才能も高く評価されていた。多少信長の機嫌を損ねても、人質、養子に信長の息子をとる、娘を側室に出すなど家安泰の手はいくらもある。個人的に保身の道はいくらもあるのだ。

では何故、老齢にもなって、変を起こしたのか? 京都だから、、、、其処でなくてはならなかった。それ以外には考えられない。
その根拠がある。 

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目撃者たち! 彼らは何を見、何を見れなかったのか?

■織田信長最大の真実■

明智光秀が京都近郊愛宕山で連歌会を開いた日、天正十年五月二十八日、この日に降る雨には、鎌倉時代、親の敵討で有名な曾我兄弟の死を嘆き悲しんだ遊女虎御前の故事にちなみ特別な名前がある。虎が雨、虎が涙。「ときは今、あめが下知る五月かな」、そのあめが下は、雨の下、天の下の掛詞である。何故この雨が問題になるのか? 

それは信長の安土城が薬師如来の霊地であり、[側の桑実寺も本尊は薬師如来]、信長の氏神牛頭天王もその化形身であるからである。そして「寅薬師」 薬師如来は寅の日が縁日とされている。
明智光秀は何故愛宕山の神前でこの雨を詠んだのか?

■目撃者■

いかなる事件においてもまず捜されるのが目撃者である。大事件になればなるほど目撃者は多くなる。だが、事件現場に居あわせたからと言って、彼らが事件の全貌を知ることはない。いわば巨像に止まった虫の如く、戦艦の建造に携わった工員の如く、一部分を知っていたにすぎず、後からニュース、資料を読んで、あの時はそういうことだったのか? と知るに過ぎない。事件がそのまますっきりするならいい。

しかし、それらの目撃の断片が、まるで巨大なパズルのように不思議な矛盾、疑惑を生み、事件そのものの真相をますますわからなくすることがある、本能寺の変はまさにそのケースだ。そしてその巨大パズルの肝心な部分は空白のままだ。本能寺側にいた宣教師、明智兵士本城惣右衛門、貴族勧修寺晴豊、神官吉田兼見、その他何人かの目撃談を繋ぎ合わせてみよう。すると奇怪な疑問点が幾つか浮上する。

一 知識人で慎重な行動、計画性により行動していた明智光秀が突然、無計画な謀叛を起こしていること。しかも、部下がそれらを支持していること。

二 用心深く、猜疑心が強いとされた信長があっさりと大軍に包囲されていること。

三 何故、信長が中国出陣前の忙しいときに、六月二日、京都本能寺に居たのか、理由がはっきりしないこと。

四 嫡子織田信忠も何故京都に居たのか、理由がはっきりしていない。彼は家督を相続している実質的な織田家の代表である。また二千人の馬廻り[親衛隊]を率いていた。

五 六月一日、内裏を空にし、四十人ほどとされる高位の貴族、高官が一度に本能寺に訪問しているのだが、なぜこの日に集中したのか理由が曖昧である。また贈り物をし、つき返されたというのだが、何のための贈り物だったかも不明。

六 なぜ信長が数十種の家宝の名茶器をもって京都に行ったのか、その理由がはっきりしない。誰かに披露するためなのか、売るためなのか? 

七 明智の大軍がやすやすと京都の門、盗賊よけの木戸、夜警の目をすり抜けており、あやしまれていない不自然さ。 

八 信長の死体が発見されていないという疑惑。

九 本能寺が襲撃されている最中、織田信忠が京都を脱出していないこと。彼は何故か五百人ほどで誠仁親王の居城二条城に篭城、討ち死にするが、大軍を前に要害でもない場所に篭るのは自殺行為ではないのか? 

九 信長の本城安土城には出陣前の五千の馬廻り[親衛隊]がいたとされるのに、無血開城し、全てが光秀の手に入っている不自然さ。

十 大阪にいた三男織田信孝の二万五千の完全武装の四国渡海軍が四散し、七千ほどになり戦闘力を消失した都合よさ。

十一 美濃で安藤氏の反乱が起き、また旧武田領などで武田残党の蜂起が起きている。

十二 京都で源平争乱時代の木曾義仲のように光秀が京都で略奪したり、皇族を人質にし、官位を出させていないこと。邪悪な謀反人にしては奇妙に規律正しい態度である。

十三 なぜ明智軍は、山崎天王山で大軍の羽柴軍を相手にしたのか? 戦略家光秀には大軍を前に篭城、要害で戦うなど手は知り尽くしていた。山崎のような平地、さして要害でない場所で負ければ、総崩れになることは知っていたはずなのにである。

十四 発見された死体が光秀のものかどうか腐敗していてよく解らないのに、秀吉は本人と断定した。そして、このあと、織田信孝が前関白近衛前久などの行方を捜索したにもかかわらず、何故か事件は有耶無耶になった。

十五 また目撃者への疑惑もある。例えば本城惣右衛門の証言は自分たちは最初は京都で信長の閲兵を受けると思っていた、誰を襲うか解らなかった、相手は徳川家康だと思っていた、ゆっくり行軍したという。だが、信長が単身馬に乗って逃亡すれば全てが崩壊する謀叛で、先鋒隊が何も知らないはずがあるのか? 前衛は必殺隊ではないのかとの大きな疑問。

十六 付け加えるなら、羽柴秀吉と軍があまりに都合よく中国から帰還し、てっとりばやく仇を討てた、都合のよさ。彼は何か知っていたのではないか?との疑惑。
これらの中には、過去、黒幕説にするために大袈裟に拡大された部分、捏造、どうでもいいような目撃者の言葉の都合いい曲解もあるかも知れない。

だが、そこには非常に興味を引く事実がある。それは光秀が謀叛後、すぐに安土城攻撃に向かっていることである。だが、そこには五千の中国出陣前の完全武装の兵士が居た。もし彼らが頑強に篭城していたら? 大阪には出陣前の四国攻撃軍二万五千がおり、大くの軍舟も持っていた。大阪から京都には二日? 急げば一日ではないのか? 明智軍が安土守備軍、織田信孝との間にすぐに挟み撃ちになり、壊滅する危険は大きかった。だがすぐに両軍ともパニックになって四散し、光秀に危機は全くなかった。この都合のよさは偶然だったのだろうか? いや、偶然ではないのだ。
なぜなら、そこにひとつの確たる証言が残されているからである。

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