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目撃者たち! 彼らは何を見、何を見れなかったのか?

■織田信長最大の真実■

明智光秀が京都近郊愛宕山で連歌会を開いた日、天正十年五月二十八日、この日に降る雨には、鎌倉時代、親の敵討で有名な曾我兄弟の死を嘆き悲しんだ遊女虎御前の故事にちなみ特別な名前がある。虎が雨、虎が涙。「ときは今、あめが下知る五月かな」、そのあめが下は、雨の下、天の下の掛詞である。何故この雨が問題になるのか? 

それは信長の安土城が薬師如来の霊地であり、[側の桑実寺も本尊は薬師如来]、信長の氏神牛頭天王もその化形身であるからである。そして「寅薬師」 薬師如来は寅の日が縁日とされている。
明智光秀は何故愛宕山の神前でこの雨を詠んだのか?

■目撃者■

いかなる事件においてもまず捜されるのが目撃者である。大事件になればなるほど目撃者は多くなる。だが、事件現場に居あわせたからと言って、彼らが事件の全貌を知ることはない。いわば巨像に止まった虫の如く、戦艦の建造に携わった工員の如く、一部分を知っていたにすぎず、後からニュース、資料を読んで、あの時はそういうことだったのか? と知るに過ぎない。事件がそのまますっきりするならいい。

しかし、それらの目撃の断片が、まるで巨大なパズルのように不思議な矛盾、疑惑を生み、事件そのものの真相をますますわからなくすることがある、本能寺の変はまさにそのケースだ。そしてその巨大パズルの肝心な部分は空白のままだ。本能寺側にいた宣教師、明智兵士本城惣右衛門、貴族勧修寺晴豊、神官吉田兼見、その他何人かの目撃談を繋ぎ合わせてみよう。すると奇怪な疑問点が幾つか浮上する。

一 知識人で慎重な行動、計画性により行動していた明智光秀が突然、無計画な謀叛を起こしていること。しかも、部下がそれらを支持していること。

二 用心深く、猜疑心が強いとされた信長があっさりと大軍に包囲されていること。

三 何故、信長が中国出陣前の忙しいときに、六月二日、京都本能寺に居たのか、理由がはっきりしないこと。

四 嫡子織田信忠も何故京都に居たのか、理由がはっきりしていない。彼は家督を相続している実質的な織田家の代表である。また二千人の馬廻り[親衛隊]を率いていた。

五 六月一日、内裏を空にし、四十人ほどとされる高位の貴族、高官が一度に本能寺に訪問しているのだが、なぜこの日に集中したのか理由が曖昧である。また贈り物をし、つき返されたというのだが、何のための贈り物だったかも不明。

六 なぜ信長が数十種の家宝の名茶器をもって京都に行ったのか、その理由がはっきりしない。誰かに披露するためなのか、売るためなのか? 

七 明智の大軍がやすやすと京都の門、盗賊よけの木戸、夜警の目をすり抜けており、あやしまれていない不自然さ。 

八 信長の死体が発見されていないという疑惑。

九 本能寺が襲撃されている最中、織田信忠が京都を脱出していないこと。彼は何故か五百人ほどで誠仁親王の居城二条城に篭城、討ち死にするが、大軍を前に要害でもない場所に篭るのは自殺行為ではないのか? 

九 信長の本城安土城には出陣前の五千の馬廻り[親衛隊]がいたとされるのに、無血開城し、全てが光秀の手に入っている不自然さ。

十 大阪にいた三男織田信孝の二万五千の完全武装の四国渡海軍が四散し、七千ほどになり戦闘力を消失した都合よさ。

十一 美濃で安藤氏の反乱が起き、また旧武田領などで武田残党の蜂起が起きている。

十二 京都で源平争乱時代の木曾義仲のように光秀が京都で略奪したり、皇族を人質にし、官位を出させていないこと。邪悪な謀反人にしては奇妙に規律正しい態度である。

十三 なぜ明智軍は、山崎天王山で大軍の羽柴軍を相手にしたのか? 戦略家光秀には大軍を前に篭城、要害で戦うなど手は知り尽くしていた。山崎のような平地、さして要害でない場所で負ければ、総崩れになることは知っていたはずなのにである。

十四 発見された死体が光秀のものかどうか腐敗していてよく解らないのに、秀吉は本人と断定した。そして、このあと、織田信孝が前関白近衛前久などの行方を捜索したにもかかわらず、何故か事件は有耶無耶になった。

十五 また目撃者への疑惑もある。例えば本城惣右衛門の証言は自分たちは最初は京都で信長の閲兵を受けると思っていた、誰を襲うか解らなかった、相手は徳川家康だと思っていた、ゆっくり行軍したという。だが、信長が単身馬に乗って逃亡すれば全てが崩壊する謀叛で、先鋒隊が何も知らないはずがあるのか? 前衛は必殺隊ではないのかとの大きな疑問。

十六 付け加えるなら、羽柴秀吉と軍があまりに都合よく中国から帰還し、てっとりばやく仇を討てた、都合のよさ。彼は何か知っていたのではないか?との疑惑。
これらの中には、過去、黒幕説にするために大袈裟に拡大された部分、捏造、どうでもいいような目撃者の言葉の都合いい曲解もあるかも知れない。

だが、そこには非常に興味を引く事実がある。それは光秀が謀叛後、すぐに安土城攻撃に向かっていることである。だが、そこには五千の中国出陣前の完全武装の兵士が居た。もし彼らが頑強に篭城していたら? 大阪には出陣前の四国攻撃軍二万五千がおり、大くの軍舟も持っていた。大阪から京都には二日? 急げば一日ではないのか? 明智軍が安土守備軍、織田信孝との間にすぐに挟み撃ちになり、壊滅する危険は大きかった。だがすぐに両軍ともパニックになって四散し、光秀に危機は全くなかった。この都合のよさは偶然だったのだろうか? いや、偶然ではないのだ。
なぜなら、そこにひとつの確たる証言が残されているからである。

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