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検証 本能寺の変、逆アリバイ説!

■織田信長最大の真実■
天正十年六月十五日、この日、安土城天主閣は謎の出火により、大炎上をして消失する。この六月十五日は「天王祭」、中部地方などでの牛頭天王の大祭日。

ところで宣教師フロイスは、次男の織田信雄が火を点けたとも書いている。「天王祭の日」に、信長の象徴とも言うべき安土城天主を焼く。すると、そこには、また別の意味が出るのかもしれない。

■明智光秀アリバイ説■
かって、信長殺しは明智光秀にあらずとし、光秀のアリバイを主張した人がいた。作家の八切止夫氏である。説によれば悪天候、豪雨により光秀は連歌会を開いた愛宕山から下山できず、その間に家臣の斉藤利三が信長の妻、濃姫の命令により勝手に軍を動かし、信長を討ったとする。その理由は、悪妻排除に対抗して、というものである。勿論研究家には酷評されているが、注目するべき逆の点に私は気づいた。

それは、もし本能寺に黒幕などがいたと考えた場合、「彼」は現場か、その近くにいたがるのではと思える点である。もし貴方が自分の全財産、一生どころか、命を賭けた相場をどうしても張らなければならなくなった、としたらどうだろう? 信頼できるプロに運用を任せたとしても、遠くはなれた場所でのんびりできるだろうか? 

むしろ一刻も早く結果を知りたいとか、プロがうまく行かなければ、何とか自分で修正できるところは修正したいと考え、側に居たがるのでは? 少なくとも、勝負場から遠く離れた場所にいる気にはならないだろうし、どうしても遠くに居なくてはならない立場になったとしても、一刻も早く結果を知るために、連絡役を何人も用意しておくのではないだろうか? 
そして、できれば相場、勝負を自分である程度、有利にコントロールしたいと願うのではないだろうか? その場合、自分の血縁、親類の多い場所を選ぶのが絶対に有利である。相手が大物すぎ、勝負が確実に命に係わる場合、なりふりは構っていられないだろう? 

そういう目で、幾つかの本能寺の黒幕といわれる人々の様子、反応を見てみよう。まず信長に追放された前将軍「足利義昭」であるが、この人の反応は鈍すぎる。彼が組んでいたら、少なくとも光秀が沓掛で軍を京都に向けた時点で、何らかの連絡網が動いて謀叛の第一情報をいち早く毛利に届けていなければならないはずだが、それがない。光秀も謀叛の誘いを受けていたとしても、あまり連絡の取れない相手を信頼し、そのために動くとも思えないのだが。

次に、よく言われる「徳川家康」、信長が自分を警戒し、何時か外様として滅ぼされることが分かったから、、、となるが、そうなら京都に居て、いち早く信長の死を確認した方が有利なのでは? また、こっそり光秀に自国三河に帰る為の馬や護衛など借りられるのでは?とも思える。光秀と組んでいた、など、兵を合わせてに戦わない限りは、よく外部には解らないだろう。しかし、実際は堺見物しており、よく信長の死も確認しないまま、伊賀越えで逃げているのだから、殆ど無関係となる。

他にも、キリシタンの陰謀、堺商人、高野山、本願寺勢力、キリスト宣教師など色々と黒幕は言われるが、頻繁に連絡を取っているか、現場近くで、すぐに新情報を入手できるような充分な手配り、人配置をしていたか? できたか?となると疑問は多い。
普段見慣れない目つきの悪い連中、どこの者かよくわからない人々が、本能寺や、妙覚寺付近をうろついていたら、盗賊の多かった時代、妙な疑いを掛けられ、捕縛される可能性すらある。

しかし、京都で疑われずに情報を収集できる人々もいる。普段見慣れた人々、家を持つ住人である。朝廷、貴族の人々を前提に推理してみると、どうなるのか? 何か、この心理点にピッタリくるような気がしてならないのだ。
知ってのとおり、京都は数百年も都の続いた場所である。そこでどのように人脈、情報網が繋がっているかはよく解らない。しかも狭い地域なので、当然、色々な商売や友人、縁戚関係はあると見るべきだろう。

また寺、神社が多く、法事や葬式、行事の集まり、茶会、連歌会、本の講義などの集まりも多い、必然的に知識階級の顔見知り、友人も多くなる。縁戚関係なら、信長の近来の行いについて多少非難をしても、安心できるだろう。
さらに、京言葉、貴族独特の言葉もあるという。他の地方の武士が側で聞いていてもよく解らない言い回しもある。
古書、歴史書の講義などもある。例えば光秀は細川藤孝、里村紹巴と丹後に遊び、源氏物語の本読みを楽しんだというのだが、信長をそれらの登場人物の誰か、平家物語の悪人の誰かに例え、悪口、非難を言ってても、それらにうとい他人にはよく解らないことだろう。

そのように、さりげなく読書会、連歌会、茶会で陰謀をめぐらす事は可能ではないだろうか? 平清盛について書いていた文書、手紙が実は信長打倒の事。それらの文書は証拠に見えるだろうか? なるだろうか? 
光秀はそうやって頻繁に読書会などで連絡を取る。また重臣たちを説得するが、彼らは半信半疑だろう。だが、ある日、彼らも知る前関白の大物が亀山か坂本城に遊び、本読みにやってきて用意と勝利を確約する。勿論、それはあくまで「平家物語の中の源氏の勝利」である。

だが、京都近郊沓掛で重臣たちは、そのときに来た大物の従者の顔を、道案内として見ることになる。

重臣たちは、光秀の言葉どうりに信長、信忠が京都で討て、安土城が無血開城したこと、大阪の四国渡海軍が四散し戦力消失したことで信頼する。

だが、ここでひとつの誤算が生じていた。信長の死体が本能寺で発見できず、その生死が不明になったことである。その苛烈な性格、報復の仕方は知られている。さらに織田家には次男信雄、三男信孝、柴田、滝川などの遺臣団の大軍も健在である。その為、光秀は朝廷からの勅命、令旨を公表しなかった。この前の南北朝の長い争乱は知られているし、光秀としては事態を複雑化することを好まなかった。

変当時、織田の重臣は彼方此方に散らばっているので、信長の死が伝われば敵と交戦したり、私欲から同盟したり、独立したりし、分裂するのではないだろうかと光秀は見ていた。

そして、それらの変の連絡、秘密文書、手紙は平清盛討伐の話として、読まれても気づかれずに残っている、、、。

人はその勝負の現場に、近くにいたがるという心理的に見る推測、、、

だが、京都、ひとつの戦場、地縁、人間の心理を考えると、なんとなく可能性は高いとも思える。光秀はその細川家への手紙によれば五十日から百日で近国の情勢は安定するだろう、その後は引退すると書いている。これは安土城、坂本城、亀山城なる堅城を持ち、京を保持し、一万五千から二万ほどの軍を集めえると考えている大名には、ちょっと欲が小さいように思える。

しかし、逆に考えれば、彼は近畿圏では確実に勝てると考えていた節があり、それは、やはりこの辺りなら充分な地縁と情報が得られるので、殆ど負けがない、と考えていたからではないかとも思えるのだ。

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