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検証、本能寺襲撃への道すじ! ひとつの名前!

■織田信長最大の真実■
天正十年六月十三日、明智光秀と羽柴秀吉の山崎天王山決戦日。この日は昔、京都などの祇園祭、牛頭天王の祭日。昔は六月七日から十四日まで。普通「天王」というときは牛頭天王を指す。この日と天王とつく場所が何故か決戦に選ばれた。

■検証・明智光秀の本能寺襲撃方法、計画はプロか、アマか?■
ひとつの人生を左右する事件、その手段には起こした人間の性格、履歴、知性、行動力などが反映することが多い。例えば泥棒、詐欺師、殺人者などは同じ手口を繰り返すことが多いという。なぜそうするかは本人もよくわからず、ただ、そうしていれば安心できるからだという。不思議な話だ。何かそこには運命めいたものの匂いすらする。では一国の運命を左右するような事件の場合は?精緻な傑作だったのか?ただのやっつけ仕事だったのか?

明智光秀は六月一日の夕刻丹波亀山城の東、野条より完全装備の一万三千の軍を発した。軍は三分隊に分けられ、午後九時だった。夕刻の進軍は敵地などでは危険なのであまりしない。勢力圏でもよほど急ぐ必要がある場合に限られる。部隊編成後、光秀は首脳を集め、軍議を行っており、ここで重臣、とくに斉藤利三、明智秀満らに謀叛を打ち明け、念入りに主旨を言い含めた、という。亀山城から京都までは二十キロ足らず、夜間の移動、早暁の本能寺襲撃、その後、側の妙覚寺の織田信忠を討つとの手順になっていたという。一万三千の軍は二列縦隊になればおよそ七キロ。京都近郊老の坂に午後十時半、その先の西国と京都への分岐点沓掛に十一時から十二時ころに到達、このとき小休止し、兵糧を取らせた。

その後、先鋒隊長安田国継を発進させる。軍を四・五キロ前進、京都桂川西岸で戦闘用足半草履にさせ、連続射撃用の火縄を鉄砲隊に用意させる。桂川を渡った時点で信長、信忠討ちの布告が兵になされ、部隊は千本通り、大宮通、姉小路通り、新町通りに別れ、二・五キロ北進、午後四時には大半が本能寺に到達、攻撃した。
先陣を指揮したのは斉藤利三で、「旗さしものが引っかからないように、木戸は押し開いて通るように。思い思いの道を通り、本能寺の森、サイカチの木、竹やぶを目指せ」と言ったと「川角太閤記」にある。織田信長、信忠は全く気づかず、この後本能寺、二条城の戦闘で切腹する。
全ては計画的なのか? ただのアマチュアなのか?

私が時々思うのは、光秀が怨恨、野望いずれにせよ、京都で信長を殺す必要が絶対にあったかという疑問である。過去に幾つか主殺しなどというものがあるが自城への誘殺、毒殺、あるいは一見それとは解らぬような事故死、戦死などというものがよく使われているような気がする。例えば、信長が毛利としか思えない部隊の奇襲で、原野で死んだ、というシナリオでも動機がただの個人的な怨恨、野望ならば別にかまわなかったような気がする。だが、光秀は名を汚すにしても、京都本能寺という場所、其処での襲撃を選んだのであり、そこには何かそうでなくてはならなかったものがあったのかもしれない。

検証として、まず老いの坂、沓掛での小休止を見てみよう。道の分岐点で兵を小休止する。そしていきなり京都に向かう。ここで何らかの報告を受けたのは間違いない。するとここまでは中止可能だったのでは? となるとよく言われている別方面から逃げ道を塞ぐために京都に入った分隊は無いと考えられる。そして、この後、明智軍は道に迷わず行動している。どう考えても誰か京都に詳しい道案内が数人来ているのではと思える。
この変で、何が一番重要なのか、信長が女遊びなどに行かず本能寺に確実にいることだが、六月一日、内裏を空にするほどの貴族の訪問、信忠、京都所司代室井貞勝の挨拶、囲碁の名手の観戦をし、彼は確実に本能寺に居た。それを確実に知ったからこそ、迷わず行動した、としか思えない行動である。

また斉藤利三の言葉にあるように、当時町境には盗賊よけの木戸があった。この盗賊よけの木戸の開閉のことは研究家、細川廣次氏の本「信長は誰か」新人物往来社に詳しい。が、これらの木戸は大軍には大変な障害になる。あの有名なナポレオンのワーテルロー会戦の時には、ちょっとした垣根、切り通しの小路が大軍の大変な通行障害になって多くの犠牲者が出た。ところが、光秀軍にはそれらが全く邪魔になっていない。となると? これらの道案内は京都木戸の開け閉めにも顔が利くとなる。

さらには桂川を渡った時点で、戦闘用草履、火縄の用意をさせた兵士らが動揺をしていないこと。
街中に宿泊していた信忠の馬周りにも気づかれていないなど、アマ、やっっけ仕事にしては不自然な事項が相次ぐ。いやむしろプロの手口ではないか?

また火事の問題もある。当時火事はすぐに燃え広がり、非常に恐れられた。幾度も京都は火難に遭っている。これら火と煙は実は逃げるにも都合がいい。信長が火を点けよと命じたのも、そういう意図があったからかもしれない。ところが、本能寺、妙覚寺、二条城と炎上したにも係わらず、何も周囲の民家に燃え広がっていないことである。特に本能寺は燃え尽きるまで放置されていたというのだが。この点は、どういうことなのか? この後、残兵狩りが明智軍に行われている。敵がまだ居る中で明智の兵は消火活動をしたのか? 或いは完全武装の殺気に満ちた兵士らがうろつく場所、そこに町衆でもすぐに行ったのだろうか?

また二千の馬廻りを率いて妙覚寺に居た嫡子織田信忠が、京都から逃げられていない。私は前に沓掛での転進前に、逃げ道を塞ぐために別道に動いた別働隊はいないだろうと書いた。ではなぜ逃げられなかったか、それは木戸などが閉まっていたり、何処かからか弓矢などで射たれたからかもしれないのだ。その警戒から、二条城に篭ったのかもしれない。

ただ信忠が五百ほどの兵士を集め、篭った二条城攻撃は、明智軍にしては少しお粗末ではある。隣の近衛邸の屋根から鉄砲を乱射しての力づくである。だが、これは当時誠仁親王の座所であり、禁裏と同じ扱いだった城に立て篭もるなど、不敬、非常識なことをするはずがないという思い込みがあれば別に不思議なことではない。当時、天皇は天子だったのであり、まさに名を汚すような逃げを武将ならするはずはない、という前提が頭にあったのではないだろうか。

結論として襲撃はかなり完成されているのでは、京都に味方が居たのは確実ではと思える。普通は独裁者信長は常に巨城と五千の兵に囲まれている。逆に言えば、信長は五千の兵士、親衛隊から離れることはあまりない。これらの兵は野戦などでは信長ひとりを守る、逃がす為に常に訓練を受けているのであり、影武者、おとりの役目も喜んで受け入れるだろう。家康、信玄などにも敗戦時、喜んで成り代わって死んだ者がいた。信長は名馬一匹あれば、、、という立場である。だが、京都では全くそれが出来なかった。信長も、彼に何かあれば織田全軍の指揮をとれる織田信忠も何故か京都から逃げられなかったのであり、その理由のひとつとして、京都市民の多くが彼らを嫌っていたのではないかとの推測もある。信長は上京都を焼き討ちし、かなりの被災を出したこともあるのだ。

私はひとつの名前に注目する。明智軍先鋒隊長「安田国継」の名前である。織田信長一人を逃がせば全ては崩壊するのだから、明智軍先鋒隊は光秀に主旨を含められた必殺隊だった筈である。その彼が後に改名している。「天野源右衛門」と。光秀は土岐源氏だった。右衛門府、左衛門府、ともに内裏の門を守るとの役職である。そして辞書には「御門・みかどと読む。帝のことである」と言葉がある。

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