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本能寺の変、安土、天主閣とは何だつたのか?

■安土城天主とは何か?■

何故、織田信長は近江安土なる地に巨大で壮麗な塔を建設したのか? よく言われる謎である。信長の意志がその建築の全てに入っているとすれば、これほど精神構造、思想を表すものはないであろう。天道思想、あるいは何かの宗教的意味、例えば信長がこれから造ろうとしていた新宗教のシンボルとなるものだった、不死を求めた信長の霊的装置、など色々と言われているが、私は織田信長が戦国を統一した如く、あらゆる宗教をここに統一、もしくは習合させ、自分の政治に利しようとしたものではないかとも推理している。

安土城天主閣は、ある神のシンボルだったと見るのが正解ではないかと思われるのだ。まず、そこがもともと薬師如来関係の霊地であり、側の桑実寺の本尊もそうであることは前に述べた。信長の氏神牛頭天王は薬師如来の化形身であるが、山はその形から牛に良く例えられる。牛頭天王は須佐之男尊と同神とする見方があるが、別名は「武塔天神」である。

そこに蛇石などの多くの巨岩を運び込んでいるが、巨石に霊的なものが潜むと信じられていることは知られている。特に須佐之男尊など、出雲の神は石神であるとされる。確かに、牛の角などは石に擬せられることも多いだろう。そして須佐之男尊のかかわる神器、アメノムラクモノツルギ、草薙の剣伝説も、剣が鉱石から作られることを思うと頷けるものがある。

天主内部は地下一階、上六階、これが当時の限界なのか、それとも意図した階層なのかは解らないが、五階が法隆寺夢殿のごとく正八角形にして朱塗り、絵は天竺の仏教的素材、六階が正方形の平面、外部金箔、絵は中国の儒教的というのは何かあるのではと思われる。
となると他の階層にも描かれた絵、一階の墨梅、二階の花鳥、瓢箪から馬、麝香鹿、西王母、三階の岩・竹・松、竜虎、桐に鳳凰、中国の聖人許由、巣父、鷹、とまりの木も何か宗教的な意図があるようにも思えるのだ。

そして、近年の研究で言われ出した、西洋の教会の如く地下から三階まであったとされる吹き抜け、その底に置かれていたという仏舎利を納めた宝塔、能舞台、、。能と言えば、非常に霊的、宗教的な感じのする芸術である。

これらを「信長公記」の著者太田牛一のよく使う「天道照覧」「時刻到来」にかけ、天道思想の表れではないかという人がいる。だが、それだけなのか? むしろ天下統一をモットーにした信長はもっと単純にして、合理的な物を作ろうとしたのではないのか?

実は、その思想の片鱗とも思える逸話がある。信長は一五八一年、天正九年七月十五日、盂蘭盆会の夜、安土天主閣と総見寺にのみ様々な提灯を吊るさせた。その光の塔から出た信長が城から一キロほどの安土セミナリヨ、キリスト教教会堂までずらりと続く松明の光の中を歩き、宣教師ヴァリニャーニらの出迎えを受けたという行事である。

いったい、これは何なのか?どう見ても、西洋の神と日本の神を統合しようとしていたとしか思えない。相手はイエス・キリストであろう、
それは天主教[キリスト教]と朝鮮などで言われていた言葉を思うと納得できる。だが、日本の誰と? と考えると、どうもあの高徳、学問で知られる天神様、菅原道真公ではないかと思われる。

この二人、似ていると言えば言えるのである。まず、どちらも非業の最期を権力によって遂げた殉教者のような存在である。
どちらも死後蘇った、とされる。そして、人から神になった。
キリストの生誕日は、十二月二十五日、クリスマスであるが、菅原道真公の生誕は六月二十五日、死んだ日は二月二十五日である。そのことから二十五日はどの月も天神祭とされる故に、十二月二十五日と重なるのである。

日本において、本地垂迹説というものがある。日本の神は仏教の神が形を変えて現れたというものである。その視点で見ると、信長が自らを神であると豪語した総見寺の本尊は十一面観音なのである。これは菅原道真公の本地物、本体とされる神なのだ。

さらに、安土天主の下には内裏の清涼殿に似た建物があり、空中階段で繋がれているが、菅原道真公には延長八年六月二十六日内裏清涼殿に落雷したとの伝説がある。このとき、高位貴族数人が死傷し、生きている空中の道真公を見たとの伝説が生まれた。

そして、牛天神、道真公が丑年に生まれ、牛を可愛がったとの伝説から天満宮はそう呼ばれることがある。菅原道真公も牛頭天王[スサノオノミコト]も出雲出身の神であり、巨岩伝説と繋がる。

また織田信長戒名なのだが、死後、寛政重修諸家譜などの記録では、まず「天徳院」となっている。有名な長興寺の肖像画も裏には「天徳院」とある。そのあと「総見院泰巌安公」と変えられるが、
「天徳」なる元号は朝廷にあるのだ。調べてもらいたい。

天徳は、三年で終わっている。このとき、天災、旱魃、内裏でも色々な災いがあり、「天徳は、火雷天神の号にして忌むべし」とされ、改元された。火雷天神とは菅原道真公、あるいはその眷属をさすという。

あの平安期の天慶承平の大乱で新皇を宣言した平将門も「火雷天神」の旗を使った。なぜなら、その位は巫女に取り付いた菅原道真公の仲介により八幡神より位を貰った、別説は八幡神と菅原道真公の連署により天皇位を貰った、との神託によるものだったからである。

「安土」なる名がその平将門の首を祀ったとされる「築土神社」、別名「田安明神」から来た可能性もあることは述べた。平将門は菅原道真公の分霊との伝説もあった。

もっとも、誤解されないように言っておくが、菅原道真公が祟り神のはずもない。道真公は、藤原氏との政変に破れ、九州大宰府に流された後も天皇家、朝廷と国の平安、安泰を天拝山などで祈られて亡くなられたからである。高徳で、清廉潔白な人格、行動は知られ、後に北野や大宰府で学問、芸術の神様として祭られている。祟り神などにされて、怒られているだろう。
が、つまりは、その不遇の死に憤った人々によって、暫くの間、そうなった、朝廷にひどく祟った事になったということである。

問題なのは、大和朝廷と対立したとき、その世に人気ある天神様を利用しようとする人々も居ることだろう。信長は、そのタブーをやろうとした可能性があると疑われたのではないだろうか?故意なのか、それとも知らずに触れたのか、それは解らない。

だが朝廷と対立しているとき、天神様とキリスト教を習合させようという様な動きをしたり、十一面観音を本尊とする「総見寺」で生き神となり、「わし自身が生きたる神、および仏だ」と言えば、疑われるに決まっていた。

天主においても、内部に描かれた釈迦、孔子、老子、三皇五帝、仙人たちなどは、多くが人間から神になった「救世主」であり、天神様に通じるところがある。
菅原道真公、天神様には別名「唐渡天神」との別名があるのである。

いまひとつ、信長の正式な戒名は「総見院泰巌安公」であるが「修羅が帝釈[大石]を動かす」との言葉があるのだ。修羅とは巨大石を滑らせる道具のことであるが、大石[たいしゃく]が帝釈天[たいしゃくてん]、[過去にはインドで天帝とされた神、その地位は時代と共に下がった]、の読みに掛けられていることは無視できないだろう。
なぜなら、「菅原道真公はその慈悲の心は十一面観音を初めとする観音の如く、その破壊力は帝釈天のごとく」と勧誘に説かれるのが中世においては普通だったからである。大石と泰巌。

「安土」、奇妙な一致もある、、、「安」の字は「ウ」+「女」でウメ、梅は天神様の象徴である、土は「十一」と読めないこともない。ところで、イエズス会の字は「IHS」と書くが、「H」の横棒「-」の上に「+」が乗っているのである。「土」の字の如く。不思議な一致、と信長が思っても不思議はない。

「だいうす」、漢字では「大臼」「大宇須とも書く」地に教会を建てる。「石神」を意識していても不思議ではない、、、。京都にもダイウス町をつくり、宣教師の協会を建てた、、。

これら幾つもの事項から、私は「安土城天主閣」を西洋のキリスト教神と日本の神を統合しようとした巨大なシンボルだったのではないか?と考える。それは壮大で、まさに信長好みの考えだった、と思われる。

だが、それは決して朝廷や、仏教徒、神道徒の人々には受け入れられることではなかっただろう。なぜなら、織田信長の考えは、それまでの日本の旧文化、文化的創造物の全てに係わる問題にもなるのだから。
[そして、崇拝する天神様を南蛮の神と一緒にすることに、怒った人々もいたに違いない]

「西洋の神と日本の神を一緒に?、それから神、あるいは救世主になって、その先、いったい何をなされるのか?」 そう思ったとき、明智光秀、柴田勝家のこころに理解できない風が吹いただろうことは否定できない、と思う。
それは、また、自らを「第六天魔王信長」と豪語した男の過去への思いにも繋がったに違いない。

第六天魔王、すなわち仏教への挑戦者、破壊の神、、、ではないか、、、と、、、。

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本能寺の変、安土城は何のために建てられたのか?

■本能寺の変において、何処を探求すれば真相への手掛かりが得られるのか? 難しい質問である。
しかし、京都、安土城、岐阜、清洲、、、信長の何かの行動が本能寺の変を招いたと推測すれば、探す場所は限られてくるようにも思われる。

中でも、やはり安土城こそは、一度は調べなくてはならないだろう。何故に、信長は岐阜を捨て、あのような琵琶湖の東岸に巨大な城を建てたのか? 戦略的要地なのか、それとも補給関係か、或いは情報収集、宗教的、商業的なものか、それともただの景色を楽しむ趣味に似たものなのか? 

いずれにせよ、あのような場所にわざわざ巨費を投じ、壮麗な巨城を造営する以上は、何か信長の心底をインパクトするものがあったに違いない。しかし、私は、幾つか資料を調べたが、そこに戦略的や補給的な要地とも思えなかった。

単純に言えば、安土なる場所は気候がいいとは言えないし、軍隊の集結、補給においても、それほどの好地とは思えない。琵琶湖の横にあるために風が強く、寒く、冬は大雪が降る。いくら景色が良くとも、大雪は軍の移動、補給、連絡には大敵である。

また、何か決死的な防衛ラインにどうしても安土周辺が必要か?というと、そういう訳でもない。織田家、信長の拠点、ライフラインといえば、尾張ー美濃と見るのが普通だろう。どうしても、軍事的要塞を築き、守らねばならない要地はその周辺と思われる。

では何のために安土城は築かれたのか? それはどうも京都を意識して、いたとしか思われない節がある。安土城は、何か京都攻略の拠点として造られたのではないか? しかも宗教的な、、、そんな感じがするのだ。

例えば、安土山は薬師如来関係の霊地である。関係する地名、仏像、薬師を本尊とする桑実寺が側にある。また幾つか墓地らしき巨岩群、仏像を模した石、古墳群などが側にあったという。
信長の氏神が津島牛頭天王で、薬師如来の化形身、つまり分霊みたいなもの、とされることは前に述べた。安土には驚くべき巨岩がいくつか運び込まれたというのだが、牛頭天王は石神に関係するという。牛の角は槍や刀に似ているし、鍛冶、金属加工に関係していても不思議ではない。

例えば、インドのヒンズー教の大主神シバは暴風雨神と牛崇拝の合わさった神だが、その象徴は三日月である。これは剣とか牛角に例えられる。また総見寺なる信長を神体とする寺を造ったのだが、置かれている御神体は盆山なる石であった。

その側には天主、天主閣なる巨塔を建造したが、NHKなどによれば仏舎利[釈迦の骨]を納めた宝塔が一階にはあり、中は吹き抜けで、能舞台まであったという。幾つかの霊的な舞のある能を城内で催すというのは、何か、特別な思慮があるとしか思えない。

太田牛一「信長公記」によれば、一階は居間、墨梅、二階は花鳥、瓢箪から馬の絵、麝香鹿、駒の牧、西王母、三階の岩、竹、松、古代聖人の許由、巣父、鷹、とまりの木、五階に描かれた釈迦像と十大弟子たち、六階の中国の古代の聖人、孔門十哲、七賢人、三皇五帝らの絵像、外見、周囲に黄金、赤色をふんだんに使われていたという。何か天道的な宗教思想を表しているのではとの説も否定できない。

安土城は地下一階、上六階の構造をなすが、中央には地下から三回にいたるまでの吹き抜け構造だったというのも、何か西洋の教会を模したとの話がある。これらは何か宗教、しかも特別な神の根源、になるものだったのではとの推測を深めるのは充分である。そこで安土宗論なる日蓮宗、浄土宗の宗教対決が天正七年に行われたのも、意図的なものに思われる。

天主閣とは、何故このように造られたのか? 前にも書いたが牛頭天王はスサノオノミコトと同神とする見方がある。そして、その別名が「武塔天神」なのである。何か信仰に関係あるのでは、と思える。

勿論、私は宣教師ルイス・フロイスの「信長は完全な無神論者である。ひとは死ねば灰、土になるのみといった」との言葉を否定するものではない。だが、科学の発達していない中世時代に、多くの人々が神仏や、目に見えない玄妙なもの、霊を信仰していた時代、その利用が役に立つと思ったかもしれない。例えば、南無阿弥陀仏を唱えて鉄砲の前に命知らずに立つ一向一揆門徒を見て、彼もこのような兵士が欲しいと思ったであろうし、それをつくる宗教の不思議さも考えたに違いない。
その場合、薬師如来の霊地で自らを神と豪語した彼の心底はだいだい想像できるような気もする。

ところで、問題なのは、こういうことを周囲が知らなかったと言えるだろうか?ということである。 少なくとも、この場所の情報などは誰かから聞いただろう。実は、その場合、明智光秀の存在が大きくクローブアップされてくるのだ。光秀は外部から来、足利義昭の家臣からの中途採用なのに、不思議にも一番早く近江で城持ち大名に抜擢されているからである。
しかも、京都鬼門封じのために建てられた寺である比叡山延暦寺焼き討ちの後、そのすぐ側の坂本城に、である。

後に、彼は日向守とされた訳であるが、京都大和朝廷の原点は日向朝廷である。どうもこれを意識しているとしか思えない官名である。そして、牛頭天王は丑寅[鬼門]の主とされているが、坂本城、安土城にせよ、京都から見ると丑寅、とくに寅ではないかとも思われる。「寅薬師」なる言葉があることは前に述べた。

京都から見ると鬼門なる方位、霊地にわざわざ造られた天主とは何なのか

実は、私は昔、ひとつの文書を読んだことがある。それは城などを攻める際、相手の鬼門、丑寅方位から攻めるというのがひとつのセオリーだったというのだ。何故かは解らない。だが、災厄の来る方位として人々が、北東・丑寅・鬼門を怖がっていた、という迷信?などからは頷けるところがある。その方位に向かって行き、死ぬというのは、何か病になる、縁起でもないと兵らが嫌がったのかもしれない。

また京都の市民らもひどく家相などで、この方角を怖がるという。丑寅の方角には門をへこませるとか、御祓い、祠を建てる、何も造らないなど神経を使う。よく知らないが、星回りで凶方位になるなどの年には工事も行事もしない家もあるという。

信長がこれらの京都の風習を知らなかったとも思えない。何故彼は、伏見とか、もっと気候的にいい場所に本城を築かなかったのか? なぜ、自らの神格化を宣言したのか? なぜ明智光秀は坂本城で、日向守なのか?

実は朝廷もこれを何か意識していた節があるのだ。
天正九年二月、三月の京都大馬揃え、つまり大軍事パレードの後、信長は正親町天皇に、誠仁親王への譲位を要請する。
研究家明石散人氏はこの譲位要請を「誠仁親王を天皇即位させ、これを一刻も早く暗殺、退位させる。そして信長の猶子五宮[誠仁親王の皇子]を即位させ、織田信忠の娘と婚姻させる。さすれば信長は天皇の父、外祖父として権勢を振るえる、そのため」とする。

だが、その天皇、朝廷の譲位拒否の言葉が「当年、金神の年にて引き延ばし」なのである。

この金神は丑寅[艮]の金神ともいわれ、金神七殺、この神のいる方位を犯せば七人の人間が死ぬという大凶神である。そして、この神が誠仁親王のいる二条城から内裏を見ると丑寅[北東]で、廻っているから、というのが言い逃れなのだ。だが、実際は、歳が違って、回っていなかったという。

驚くべきことに、信長は全く何も言わずに安土城に帰ったのである。
当時の天皇の大行事、譲位、即位式すら延引させる凶神。さて、この金神は牛頭天王の配下、眷属との見方もあるのだ。不思議な一致、、、

そして、これらを思い合わせると、明智光秀が「ときは今、あめが下知る五月かな」と五月二十八日、虎が雨、虎が涙の日、日本一有名な連歌を詠んだのも決して偶然とは思えないのである。寅薬師、薬師如来は寅の日が縁日であるがゆえに。

安土城は、京都攻略のために、わざわざあの場所が選ばれて建てられた。そうではないだろうか? 勿論、さまざまな反論はあるかもしれない。

だが、金神の歳という譲位拒否の言い訳は、実は回避方法があるのである。別の場所に一定期間住んで、金神の方位を避けるなど。そして後柏原帝、桓武帝と金神の歳の即位もあるという。それを全くせず、信長の申し出を拒否したところに、私は京都から丑寅方位の安土城に対する警戒心を見てならない。それはまた、次の段階へのステップになったのではないだろうか?

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本能寺の変、光秀の最大の軍事同盟者、柴田勝家!

■本能寺の変、光秀最大の軍事的同盟者、柴田勝家■
ひとつの物語の中に、もうひとつの物語が生まれ、そして、その中にももうひとつの物語が生まれる。そして、その傍系の物語が主系統と勘違いされることもある。

例えば我々が現在読む物語は、その時代にはただの脇役の物語で、勝者になったから主役なのだと我々が勘違いしているだけなのかもしれないのだ。本能寺の変にも信長、光秀、秀吉以外に本当の主役がいた。「京都秘密文書」、私はそこにある幾つかの不思議な書き込みを長年検討してきたが、ひとつの結論に達している。

よく言われる「明智光秀は、信長を殺した後、どうするつもりだったのか? 先の見通しの全くない謀叛を起こして気が狂ったか?」という疑問、これへの答えである。朝廷と明智光秀には、軍事的同盟者がいた。

その名は織田家重臣「柴田勝家」である。
なぜそうなのか?京都秘密文書にどういう書き込みがあるかはパクリがあるので言えないが、その謀叛の黒幕としての要点を述べよう。

一 滝川一益が長年の工作の末、武田家重臣木曾義昌を裏切らせ、武田滅亡に追い込み、主将武田勝頼の首、大領を得るという大功を立てた。これで織田内部の地位が逆転しかねなくなった。

二 その一益は関東の上野と信濃二郡を与えられ、勝家の長年の敵越後上杉と国境を接した。もし一益が越後を工作、あるいは旧武田家臣団をもって大勝することになると、長年にわたり越中、加賀あたりで大軍を釘付けにしていた勝家は無能の責任を問われるだろう。事実、重臣佐久間信盛は長年にわたる石山本願寺攻めで無能の烙印を押され、追放されている。

三 過去に勝家は、信長の弟信行を奉じて謀叛を起こした罪がある。重臣林通勝は、それも原因で追放されている。

四 勝家は過去、上杉謙信に加賀手取川で大敗し、信長に恥を掻かせた。

五 信長はキリスト教を導入し、仏教徒だった柴田勝家にショックを与えた。

六 勝家の領国である越前や加賀国などは、もともと一向一揆の勢力が強く、それへの信長の鎮圧は過酷であり、多くの恨みを領民に持たれていた。治安に問題があり、大謀叛が起こり、責任を問われて失脚する可能性が充分にあった。

七 勝家の家臣団は旧朝倉、旧浅井の家臣団を含んでおり、京都と係わりが深かった。これは近江浅井氏の祖が藤原氏、朝倉氏の祖が皇族とされてることなどに注目してほしい。朝倉氏の一乗越前谷が小京都とされているなど、交易ルートが長年京都とあった。

八 勝家は五万から四万とされる大軍を動員でき、充分に信長と対抗できる立場にあった。明智軍や朝廷勢力が加われば、新幕府の中心的存在になれるであろうとの自負があった。これには武勇家とされる男の、老年になり、一花咲かせようとの山っ気もあったかもしれない。

九 織田信長の第六天魔王、天魔という悪評や過酷な神社、仏閣への破壊についていけなかった。

■このような視点で見ると幾つか本能寺の変前後に都合のいい点が見つかる。まず勝家が三ヶ月におよび囲んだとされる越中の魚津城を六月三日にすぐ陥落させ、その後、変事が伝わってもパニックになることもなく全兵力を保持して撤退していることである。

さらに最大のライバルである上野国滝川一益の軍は北条軍に攻められ壊滅した。甲斐、信濃でも旧武田家臣の反乱などが起き、甲斐で新領主河尻清隆は殺され、光秀討伐の兵を動かすなどという状態ではなくなった。

また四国渡軍に三男信孝といた重臣丹羽長秀の軍二万五千ばかりもパニックを起こして四散、指揮能力のなさを暴露した。美濃でも安藤氏の乱が起こっている。つまり柴田勝家の最大のライバルらは失脚同様になったといっていい。その甲斐、信濃、北条への工作も越中あたりからなら充分可能なのである。

事実、この後の統治をどうするか?を決めた清須会議においては柴田と羽柴の二大勢力争いになったが、不思議なことがあった。柴田勝家は秀吉の近江長浜城をよこせと主張し、譲らなかったが、そこは浅井氏の小谷城の近くであり、後に浅井長政の妻だったお市の方と結婚していることである。

近江勢力、、、安土城が殆ど光秀の前に無血開城し、財宝、兵糧をそのまま渡していることに注目してもらいたい。
守将蒲生氏も藤原氏系統であると言われている。

お市の方は知ってのとおり、夫浅井長政を殺され、ドクロの杯とされ、長男[お市の方の子ではないとの説もあるが]は串刺しで殺された。娘三人も長政の実子であるため、信長にどういう目に遭わされるかはわからなかった。お市の方が信長に好意を持っていたかは解らない。腹違い、つまり側室の腹の妹である。むしろ嫁ぎ先の浅井長政の子供らを奉じる人間たちの方がはるかに頼りになる存在だったかも知れないのだ。

「京都」-「近江・浅井」-「越前・朝倉」、
このように考えると、まさに、長年にわたり培われた京都へ、京都からの交易、交流の太い道であったことが解かる。柴田勝家を口説いたのは、そのルートなのだ。

そして、また我々は、そういう視点で見ると奇妙な動きをしたひとりの人間が居たことに気づくだろう。「前田利家」、後のしずが岳の戦いで勝手に退却し、柴田勝家の大敗北の原因を作った人物、そして秀吉が親しげにその居城の前に数騎で乗り付け、開城させ、味方にした人物、後に加賀に百万石の大領を与えられ、秀吉に最も信頼された人物、、、。
柴田勝家の側に彼は居た、、、前田利家も信長からの扱いを憎んでいたという話がある。だが、、、、もし大きな情報を掴んでいたら、、、、この線は、さすがに私もよく解らない。

いずれにせよ、日向守明智光秀が朝廷を心配して動いたのは間違いない。それは、東宮誠仁親王とよく連絡を取っているのを見ても解る。だが、朝廷は光秀の兵力だけでは、強大な織田軍の報復に耐えられないのを承知していた。それ故に、もう一人の立場を心配している有力重臣を抱きこんだのである。五万の軍を動員できるとされる北方軍司令官柴田勝家、彼が光秀に協力すれば、変後の事態はかなり安心である。
さらに勝家にしても、朝廷の命令、あるいは何らかの地位を受ければ、立場は安全と思えたことだろう。その軍は殆ど完全なまま、越前に帰還した。

ただ誤算は、羽柴秀吉、この男の存在だけだったろう。それも最大のライバルが、滝川一益と考えていればこその間違いだった。しかし、柴田勝家は軍事面では自分が一番上と自負していたことだろう。それは軍事での赫々たる経歴を見れば、頷けなくもない。だが、事態は予想外の敗北を招いた。何が予想外だったのか? それはまた別の部分で述べたい。
ここでの結論は「朝廷と明智光秀の軍事的同盟者は柴田勝家」であったということである。これにより、幾つかの本能寺への疑問のいくつかは氷解することだろう。

根拠のひとつを述べよう。
天正十一年[一五八三]三月の賤ガ嶽の戦いで勝家は秀吉に負け、越前北ノ庄で四月二十四日に天守閣を炎上させ、お市の方と自刃する。

辞世は
「さらぬだに、打ちぬる程も、夏の夜の、夢路をさそう、ほととぎすかな」お市の方。

「夏の夜の、夢路はかなき跡の名を、雲井にあげよ、山ほととぎす」勝家である。

この二つの句には「ほととぎす」が出てくるが、この鳥の名は辞書を見てもらいたい。「あの世からの使い」「魂迎え鳥」「しでの田長」などの別名がある。
「死出の田長」、誰かを思い出す名前である。

「雲井・雲居」も辞書を引いてもらいたい。「内裏・宮中」の意味がある。

「山」であるが、牛頭天王と同神とされる「スサノオノミコト」は「泰山府君」なる神と合祀される。
「山からの死者の使い」「かっこう鳥と同じ、巣の乗っ取り屋」、それがほととぎすである。

「打ちぬる」という使い方は珍しく、「打ち」は強調を意味するが、ほとんど「ぬる」濡れるの強調には不自然である。むしろ「打ち」は「討ち」に通じることが多い。

本能寺の変は「夏の夜」に起こった。ふたりが強調している「夢路」とは何なのだろうか? いずれにせよ、旧暦の四月に「夏の夜」、「夢路」、「ほととぎす」、「雲井」のことを強調して二人はともに死ぬ。そこに夢路跡の名をあげよとの勝家の主張はどういう意味だったのだろうか?

そして、我々は次の不自然な歴史の展開を知ることになる。豊臣秀吉の天下と政権は、お市の方の娘茶々とその子秀頼が全てを取った。
その側にいたのは、石田三成、大野治長を中心とする近江勢力である。

本能寺の変、そこでの裏の本当の主役は、柴田勝家とお市の方だった。
ひとつの視点は、本能寺の変について長年抱かれた幾つかの大疑問を簡単に解消させるのではないだろうか?

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偽書・奇書「本能寺の変、京都秘密文書」

■何が真相解明のキーになるのか?■
「偽書・奇書 京都秘密文書」

巨大な歴史の事件の裏には、常に奇怪なる文書が幾つか存在する。俗に言う奇書・偽書の分類である。何ゆえに出たのか? 何が目的なのか? 作者や意図するものすらわからず、それらの偽書・奇書なるものは存在し、時々、ふっと我々歴史マニアの前に現れては去っていく。

勿論、それらの多くは、ひと読みすれば何か金儲けか、浅薄な祖先の武功自慢、或いは家柄に箔をつけるために偽造されたものではないかと見分けがつくものが多い。紙質、時代考証、書かれている言葉、地名の使い方、信頼できる史料と読み比べると存在する事件の日時、関係者名の間違い。

しかしながら、学術研究においては価値を付けられず、笑止千万とされる数百の偽書・奇書の中には、時々ではあるが、我々を注視させる奇妙な部分、書き込みのあるものがある。

本能寺の変における偽書・奇書「京都秘密文書」もその類である。何ゆえ奇書「京都秘密文書」とするのか? それは正式な題名、作者を書くとパクられる可能性があるからである。だから、ここではそういう事にしておきたい。どうせ持ち主は「偽書」と宣言してるし、そこに書かれていることに学術的価値を全く見出していない。

私もその明らかに紙質や言葉使いの違う、無愛想な書き方の薄っぺらな書物、巻物でもない、、、を本物と断言する勇気もない。ちょっと書かれてあることに裏を取ろうとしたのだが、信頼性はそこに見出せなかった。特に信長の経歴、性格、明智家の家族などにおいてはかなり違っていた。地名などにおいては、作家井沢元彦氏が「鎌倉時代に東京タワーという地名を使った資料があれば、その価値は、、、」と言っているのと同じである。

だが、「本能寺の変において」は、、、、。いささか気になって仕様がない部分がある。しかも、ある程度正確ではないかとさえ思える部分もあるのだ。
だから、私は魅せられる。故に、ここにその不思議な話を、ちょっと書いてみたい。

例えば、信長の氏神である牛頭天王は薬師如来の化形身であるという神学。つまり牛頭天王は疫病を司る神であり、そのあらぶる魂を鎮撫するために祇園祭は起こり、薬はそれに通じるという一説は説得力がある。そして牛頭天王は朝廷、内裏に敬われつつも最も恐れられた神なのだという。

ところで、織田信長が戦略、政略的にももっと良い地は幾つもあるのに、安土なる地を選んで巨城を構築したのは、そこが薬師如来関係の霊地、霊山とされ、もともと薬師平なる地名、仏像、薬師如来を本尊とする桑実寺などがあったからだとする。

また「寅薬師」、薬師如来は寅の日[十二支の]が縁日という言葉が存在するが、信長が焼き討ちをし、三千人を殺した比叡山延暦寺は京都鬼門[丑寅方位]封じの寺であり、それに係わった明智光秀の坂本城はその側に存在する。
安土城も京都から見ると丑寅、特に寅方位ではないかとの推測も出来る。そこには「天主」なる巨塔を建てているが、牛頭天王[スサノオノミコトと同神ともされる]の別名は「武塔天神」である。
[また牛頭天王は鬼門の主である]
さらに信長の家紋のひとつ五つ木瓜紋は、津島牛頭天王社の神紋ではないかとの研究結果、、、。

奇妙な一致は、まだある。
先にも書いたが、天正十年五月二十八日、出陣前の慌しい中、明智光秀は京都近郊愛宕山神社で連歌会を開くが、この日に降る雨は鎌倉時代の曾我兄弟の敵討の故事にちなみ「虎が雨、虎が涙」という特別な名がある。[曾我兄弟の一人の死を、遊女虎御前が嘆き悲しんだということから]
明智光秀は「時は今、あめが下知る五月かな」と初句に詠んでいるが、この、あめがしたなる言葉は、天下と雨が下の掛詞である。
その句を、彼はわざわざ神前に奉納したのだ。

さて「六月一日」明智光秀の丹波亀山城出陣は「天王降ろし」の日、牛頭天王を迎える行事の日。
さらに「六月二日の変」は、自らを「第六天の魔王信長」との豪語の言葉、「二日の変」は「天に二日なし、土に二王なし」の中国礼記の言葉に掛けられたものと考えられなくもない。

「六月十三日」、山崎天王山の戦いも京都祇園祭りの日[昔は六月七日から十四日]、

「六月十五日」、中部地方などの「天王祭」の日に、信長の最高傑作安土城天主閣は謎の炎上により消失している。この一致は偶然といえるだろうか?

また別の一致もある、光秀には辞世の漢詩が残っている。

逆順無二門、
大道徹心源、
五十五年夢、
覚来帰一元

というものだが、歴史を見れば本能寺の変時の明智軍先鋒隊長安田国継は、後に何故か「天野源右衛門」と改名している。右衛門府、左衛門府、ともに内裏の門を守る役職である。ところで「御門、みかど・帝のこと」との言葉があるのだ。先鋒隊長といえば、もっとも重要な役目であり、光秀の最も信頼できる部下だったはずである。
その改名と辞世漢詩の一行目の「無二門」、二行目の「源」なる言葉はぴったりする。さらに四行目の一元なる言葉には「元号」の意味も含むという。「天正」、、、夢が覚めて、これに帰るとはいかなる意味なのか?

「牛頭天王」なる言葉を考えると、もうひとつ気になることもある。
「牛頭・ごず」なる奇妙な読みだが、これは「五月五日」の「牛神祭りの日」に掛けられているとの話があるのだ。今でこそ祝日だが、昔「五」は大凶数であり、「五月五日」に生まれた子供は、親を殺す者として殺されたなどの話が古の中国の話などには出てくる。日本でもその手の思想はあった。「五・ご」と「牛・ご」。
ところで光秀の過去は不明で、年齢はよく解らないことが知られている。辞世漢詩を見てもらいたい。横に読むと、つまり一番上の字だけとると

「逆大五覚」、つぎが

「順道十来」
「無徹五帰」
「二心年一」
「門源夢元」、、、

逆と大きく五を覚えた、、、順の道、天正十年、、、無に徹し五を帰す、、、、御門と源氏の夢を元[はじめ]る。

「天野源右衛門」と「牛神祭り・五月五日」を考え合わせると、そんな不思議な一致、読み方があると思えないだろうか? 

偽書「京都秘密文書」には、そういう不思議なこと、ヒントが幾つか書いてある書物である。
どこから、何処まで的確に書いてあるか、どこかからが私の推測、推理かは言えない。パクリがあるから。

しかし、偽書・奇書にしても不思議な書物だ。何か、元になった原本のようなものがあるのかも知れないが、私には見当がつかない。しかし、なかなかの豊富な要素があるように思える。
だから、もう少し、「閑話」として、書かれてある不思議なことを追求してみよう。

次は、ちょっと毛色の変わった、あの人間のことだ。

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