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本能寺の変、安土城は何のために建てられたのか?

■本能寺の変において、何処を探求すれば真相への手掛かりが得られるのか? 難しい質問である。
しかし、京都、安土城、岐阜、清洲、、、信長の何かの行動が本能寺の変を招いたと推測すれば、探す場所は限られてくるようにも思われる。

中でも、やはり安土城こそは、一度は調べなくてはならないだろう。何故に、信長は岐阜を捨て、あのような琵琶湖の東岸に巨大な城を建てたのか? 戦略的要地なのか、それとも補給関係か、或いは情報収集、宗教的、商業的なものか、それともただの景色を楽しむ趣味に似たものなのか? 

いずれにせよ、あのような場所にわざわざ巨費を投じ、壮麗な巨城を造営する以上は、何か信長の心底をインパクトするものがあったに違いない。しかし、私は、幾つか資料を調べたが、そこに戦略的や補給的な要地とも思えなかった。

単純に言えば、安土なる場所は気候がいいとは言えないし、軍隊の集結、補給においても、それほどの好地とは思えない。琵琶湖の横にあるために風が強く、寒く、冬は大雪が降る。いくら景色が良くとも、大雪は軍の移動、補給、連絡には大敵である。

また、何か決死的な防衛ラインにどうしても安土周辺が必要か?というと、そういう訳でもない。織田家、信長の拠点、ライフラインといえば、尾張ー美濃と見るのが普通だろう。どうしても、軍事的要塞を築き、守らねばならない要地はその周辺と思われる。

では何のために安土城は築かれたのか? それはどうも京都を意識して、いたとしか思われない節がある。安土城は、何か京都攻略の拠点として造られたのではないか? しかも宗教的な、、、そんな感じがするのだ。

例えば、安土山は薬師如来関係の霊地である。関係する地名、仏像、薬師を本尊とする桑実寺が側にある。また幾つか墓地らしき巨岩群、仏像を模した石、古墳群などが側にあったという。
信長の氏神が津島牛頭天王で、薬師如来の化形身、つまり分霊みたいなもの、とされることは前に述べた。安土には驚くべき巨岩がいくつか運び込まれたというのだが、牛頭天王は石神に関係するという。牛の角は槍や刀に似ているし、鍛冶、金属加工に関係していても不思議ではない。

例えば、インドのヒンズー教の大主神シバは暴風雨神と牛崇拝の合わさった神だが、その象徴は三日月である。これは剣とか牛角に例えられる。また総見寺なる信長を神体とする寺を造ったのだが、置かれている御神体は盆山なる石であった。

その側には天主、天主閣なる巨塔を建造したが、NHKなどによれば仏舎利[釈迦の骨]を納めた宝塔が一階にはあり、中は吹き抜けで、能舞台まであったという。幾つかの霊的な舞のある能を城内で催すというのは、何か、特別な思慮があるとしか思えない。

太田牛一「信長公記」によれば、一階は居間、墨梅、二階は花鳥、瓢箪から馬の絵、麝香鹿、駒の牧、西王母、三階の岩、竹、松、古代聖人の許由、巣父、鷹、とまりの木、五階に描かれた釈迦像と十大弟子たち、六階の中国の古代の聖人、孔門十哲、七賢人、三皇五帝らの絵像、外見、周囲に黄金、赤色をふんだんに使われていたという。何か天道的な宗教思想を表しているのではとの説も否定できない。

安土城は地下一階、上六階の構造をなすが、中央には地下から三回にいたるまでの吹き抜け構造だったというのも、何か西洋の教会を模したとの話がある。これらは何か宗教、しかも特別な神の根源、になるものだったのではとの推測を深めるのは充分である。そこで安土宗論なる日蓮宗、浄土宗の宗教対決が天正七年に行われたのも、意図的なものに思われる。

天主閣とは、何故このように造られたのか? 前にも書いたが牛頭天王はスサノオノミコトと同神とする見方がある。そして、その別名が「武塔天神」なのである。何か信仰に関係あるのでは、と思える。

勿論、私は宣教師ルイス・フロイスの「信長は完全な無神論者である。ひとは死ねば灰、土になるのみといった」との言葉を否定するものではない。だが、科学の発達していない中世時代に、多くの人々が神仏や、目に見えない玄妙なもの、霊を信仰していた時代、その利用が役に立つと思ったかもしれない。例えば、南無阿弥陀仏を唱えて鉄砲の前に命知らずに立つ一向一揆門徒を見て、彼もこのような兵士が欲しいと思ったであろうし、それをつくる宗教の不思議さも考えたに違いない。
その場合、薬師如来の霊地で自らを神と豪語した彼の心底はだいだい想像できるような気もする。

ところで、問題なのは、こういうことを周囲が知らなかったと言えるだろうか?ということである。 少なくとも、この場所の情報などは誰かから聞いただろう。実は、その場合、明智光秀の存在が大きくクローブアップされてくるのだ。光秀は外部から来、足利義昭の家臣からの中途採用なのに、不思議にも一番早く近江で城持ち大名に抜擢されているからである。
しかも、京都鬼門封じのために建てられた寺である比叡山延暦寺焼き討ちの後、そのすぐ側の坂本城に、である。

後に、彼は日向守とされた訳であるが、京都大和朝廷の原点は日向朝廷である。どうもこれを意識しているとしか思えない官名である。そして、牛頭天王は丑寅[鬼門]の主とされているが、坂本城、安土城にせよ、京都から見ると丑寅、とくに寅ではないかとも思われる。「寅薬師」なる言葉があることは前に述べた。

京都から見ると鬼門なる方位、霊地にわざわざ造られた天主とは何なのか

実は、私は昔、ひとつの文書を読んだことがある。それは城などを攻める際、相手の鬼門、丑寅方位から攻めるというのがひとつのセオリーだったというのだ。何故かは解らない。だが、災厄の来る方位として人々が、北東・丑寅・鬼門を怖がっていた、という迷信?などからは頷けるところがある。その方位に向かって行き、死ぬというのは、何か病になる、縁起でもないと兵らが嫌がったのかもしれない。

また京都の市民らもひどく家相などで、この方角を怖がるという。丑寅の方角には門をへこませるとか、御祓い、祠を建てる、何も造らないなど神経を使う。よく知らないが、星回りで凶方位になるなどの年には工事も行事もしない家もあるという。

信長がこれらの京都の風習を知らなかったとも思えない。何故彼は、伏見とか、もっと気候的にいい場所に本城を築かなかったのか? なぜ、自らの神格化を宣言したのか? なぜ明智光秀は坂本城で、日向守なのか?

実は朝廷もこれを何か意識していた節があるのだ。
天正九年二月、三月の京都大馬揃え、つまり大軍事パレードの後、信長は正親町天皇に、誠仁親王への譲位を要請する。
研究家明石散人氏はこの譲位要請を「誠仁親王を天皇即位させ、これを一刻も早く暗殺、退位させる。そして信長の猶子五宮[誠仁親王の皇子]を即位させ、織田信忠の娘と婚姻させる。さすれば信長は天皇の父、外祖父として権勢を振るえる、そのため」とする。

だが、その天皇、朝廷の譲位拒否の言葉が「当年、金神の年にて引き延ばし」なのである。

この金神は丑寅[艮]の金神ともいわれ、金神七殺、この神のいる方位を犯せば七人の人間が死ぬという大凶神である。そして、この神が誠仁親王のいる二条城から内裏を見ると丑寅[北東]で、廻っているから、というのが言い逃れなのだ。だが、実際は、歳が違って、回っていなかったという。

驚くべきことに、信長は全く何も言わずに安土城に帰ったのである。
当時の天皇の大行事、譲位、即位式すら延引させる凶神。さて、この金神は牛頭天王の配下、眷属との見方もあるのだ。不思議な一致、、、

そして、これらを思い合わせると、明智光秀が「ときは今、あめが下知る五月かな」と五月二十八日、虎が雨、虎が涙の日、日本一有名な連歌を詠んだのも決して偶然とは思えないのである。寅薬師、薬師如来は寅の日が縁日であるがゆえに。

安土城は、京都攻略のために、わざわざあの場所が選ばれて建てられた。そうではないだろうか? 勿論、さまざまな反論はあるかもしれない。

だが、金神の歳という譲位拒否の言い訳は、実は回避方法があるのである。別の場所に一定期間住んで、金神の方位を避けるなど。そして後柏原帝、桓武帝と金神の歳の即位もあるという。それを全くせず、信長の申し出を拒否したところに、私は京都から丑寅方位の安土城に対する警戒心を見てならない。それはまた、次の段階へのステップになったのではないだろうか?

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