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本能寺の変、光秀の最大の軍事同盟者、柴田勝家!

■本能寺の変、光秀最大の軍事的同盟者、柴田勝家■
ひとつの物語の中に、もうひとつの物語が生まれ、そして、その中にももうひとつの物語が生まれる。そして、その傍系の物語が主系統と勘違いされることもある。

例えば我々が現在読む物語は、その時代にはただの脇役の物語で、勝者になったから主役なのだと我々が勘違いしているだけなのかもしれないのだ。本能寺の変にも信長、光秀、秀吉以外に本当の主役がいた。「京都秘密文書」、私はそこにある幾つかの不思議な書き込みを長年検討してきたが、ひとつの結論に達している。

よく言われる「明智光秀は、信長を殺した後、どうするつもりだったのか? 先の見通しの全くない謀叛を起こして気が狂ったか?」という疑問、これへの答えである。朝廷と明智光秀には、軍事的同盟者がいた。

その名は織田家重臣「柴田勝家」である。
なぜそうなのか?京都秘密文書にどういう書き込みがあるかはパクリがあるので言えないが、その謀叛の黒幕としての要点を述べよう。

一 滝川一益が長年の工作の末、武田家重臣木曾義昌を裏切らせ、武田滅亡に追い込み、主将武田勝頼の首、大領を得るという大功を立てた。これで織田内部の地位が逆転しかねなくなった。

二 その一益は関東の上野と信濃二郡を与えられ、勝家の長年の敵越後上杉と国境を接した。もし一益が越後を工作、あるいは旧武田家臣団をもって大勝することになると、長年にわたり越中、加賀あたりで大軍を釘付けにしていた勝家は無能の責任を問われるだろう。事実、重臣佐久間信盛は長年にわたる石山本願寺攻めで無能の烙印を押され、追放されている。

三 過去に勝家は、信長の弟信行を奉じて謀叛を起こした罪がある。重臣林通勝は、それも原因で追放されている。

四 勝家は過去、上杉謙信に加賀手取川で大敗し、信長に恥を掻かせた。

五 信長はキリスト教を導入し、仏教徒だった柴田勝家にショックを与えた。

六 勝家の領国である越前や加賀国などは、もともと一向一揆の勢力が強く、それへの信長の鎮圧は過酷であり、多くの恨みを領民に持たれていた。治安に問題があり、大謀叛が起こり、責任を問われて失脚する可能性が充分にあった。

七 勝家の家臣団は旧朝倉、旧浅井の家臣団を含んでおり、京都と係わりが深かった。これは近江浅井氏の祖が藤原氏、朝倉氏の祖が皇族とされてることなどに注目してほしい。朝倉氏の一乗越前谷が小京都とされているなど、交易ルートが長年京都とあった。

八 勝家は五万から四万とされる大軍を動員でき、充分に信長と対抗できる立場にあった。明智軍や朝廷勢力が加われば、新幕府の中心的存在になれるであろうとの自負があった。これには武勇家とされる男の、老年になり、一花咲かせようとの山っ気もあったかもしれない。

九 織田信長の第六天魔王、天魔という悪評や過酷な神社、仏閣への破壊についていけなかった。

■このような視点で見ると幾つか本能寺の変前後に都合のいい点が見つかる。まず勝家が三ヶ月におよび囲んだとされる越中の魚津城を六月三日にすぐ陥落させ、その後、変事が伝わってもパニックになることもなく全兵力を保持して撤退していることである。

さらに最大のライバルである上野国滝川一益の軍は北条軍に攻められ壊滅した。甲斐、信濃でも旧武田家臣の反乱などが起き、甲斐で新領主河尻清隆は殺され、光秀討伐の兵を動かすなどという状態ではなくなった。

また四国渡軍に三男信孝といた重臣丹羽長秀の軍二万五千ばかりもパニックを起こして四散、指揮能力のなさを暴露した。美濃でも安藤氏の乱が起こっている。つまり柴田勝家の最大のライバルらは失脚同様になったといっていい。その甲斐、信濃、北条への工作も越中あたりからなら充分可能なのである。

事実、この後の統治をどうするか?を決めた清須会議においては柴田と羽柴の二大勢力争いになったが、不思議なことがあった。柴田勝家は秀吉の近江長浜城をよこせと主張し、譲らなかったが、そこは浅井氏の小谷城の近くであり、後に浅井長政の妻だったお市の方と結婚していることである。

近江勢力、、、安土城が殆ど光秀の前に無血開城し、財宝、兵糧をそのまま渡していることに注目してもらいたい。
守将蒲生氏も藤原氏系統であると言われている。

お市の方は知ってのとおり、夫浅井長政を殺され、ドクロの杯とされ、長男[お市の方の子ではないとの説もあるが]は串刺しで殺された。娘三人も長政の実子であるため、信長にどういう目に遭わされるかはわからなかった。お市の方が信長に好意を持っていたかは解らない。腹違い、つまり側室の腹の妹である。むしろ嫁ぎ先の浅井長政の子供らを奉じる人間たちの方がはるかに頼りになる存在だったかも知れないのだ。

「京都」-「近江・浅井」-「越前・朝倉」、
このように考えると、まさに、長年にわたり培われた京都へ、京都からの交易、交流の太い道であったことが解かる。柴田勝家を口説いたのは、そのルートなのだ。

そして、また我々は、そういう視点で見ると奇妙な動きをしたひとりの人間が居たことに気づくだろう。「前田利家」、後のしずが岳の戦いで勝手に退却し、柴田勝家の大敗北の原因を作った人物、そして秀吉が親しげにその居城の前に数騎で乗り付け、開城させ、味方にした人物、後に加賀に百万石の大領を与えられ、秀吉に最も信頼された人物、、、。
柴田勝家の側に彼は居た、、、前田利家も信長からの扱いを憎んでいたという話がある。だが、、、、もし大きな情報を掴んでいたら、、、、この線は、さすがに私もよく解らない。

いずれにせよ、日向守明智光秀が朝廷を心配して動いたのは間違いない。それは、東宮誠仁親王とよく連絡を取っているのを見ても解る。だが、朝廷は光秀の兵力だけでは、強大な織田軍の報復に耐えられないのを承知していた。それ故に、もう一人の立場を心配している有力重臣を抱きこんだのである。五万の軍を動員できるとされる北方軍司令官柴田勝家、彼が光秀に協力すれば、変後の事態はかなり安心である。
さらに勝家にしても、朝廷の命令、あるいは何らかの地位を受ければ、立場は安全と思えたことだろう。その軍は殆ど完全なまま、越前に帰還した。

ただ誤算は、羽柴秀吉、この男の存在だけだったろう。それも最大のライバルが、滝川一益と考えていればこその間違いだった。しかし、柴田勝家は軍事面では自分が一番上と自負していたことだろう。それは軍事での赫々たる経歴を見れば、頷けなくもない。だが、事態は予想外の敗北を招いた。何が予想外だったのか? それはまた別の部分で述べたい。
ここでの結論は「朝廷と明智光秀の軍事的同盟者は柴田勝家」であったということである。これにより、幾つかの本能寺への疑問のいくつかは氷解することだろう。

根拠のひとつを述べよう。
天正十一年[一五八三]三月の賤ガ嶽の戦いで勝家は秀吉に負け、越前北ノ庄で四月二十四日に天守閣を炎上させ、お市の方と自刃する。

辞世は
「さらぬだに、打ちぬる程も、夏の夜の、夢路をさそう、ほととぎすかな」お市の方。

「夏の夜の、夢路はかなき跡の名を、雲井にあげよ、山ほととぎす」勝家である。

この二つの句には「ほととぎす」が出てくるが、この鳥の名は辞書を見てもらいたい。「あの世からの使い」「魂迎え鳥」「しでの田長」などの別名がある。
「死出の田長」、誰かを思い出す名前である。

「雲井・雲居」も辞書を引いてもらいたい。「内裏・宮中」の意味がある。

「山」であるが、牛頭天王と同神とされる「スサノオノミコト」は「泰山府君」なる神と合祀される。
「山からの死者の使い」「かっこう鳥と同じ、巣の乗っ取り屋」、それがほととぎすである。

「打ちぬる」という使い方は珍しく、「打ち」は強調を意味するが、ほとんど「ぬる」濡れるの強調には不自然である。むしろ「打ち」は「討ち」に通じることが多い。

本能寺の変は「夏の夜」に起こった。ふたりが強調している「夢路」とは何なのだろうか? いずれにせよ、旧暦の四月に「夏の夜」、「夢路」、「ほととぎす」、「雲井」のことを強調して二人はともに死ぬ。そこに夢路跡の名をあげよとの勝家の主張はどういう意味だったのだろうか?

そして、我々は次の不自然な歴史の展開を知ることになる。豊臣秀吉の天下と政権は、お市の方の娘茶々とその子秀頼が全てを取った。
その側にいたのは、石田三成、大野治長を中心とする近江勢力である。

本能寺の変、そこでの裏の本当の主役は、柴田勝家とお市の方だった。
ひとつの視点は、本能寺の変について長年抱かれた幾つかの大疑問を簡単に解消させるのではないだろうか?

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