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本能寺の変、戦国史最大の暗号「本能寺・コード」は実在する!!

日本史の真実
戦国史最大の暗号、本能寺・コードは世に実在する!!■

それを私ははっきりと、世の中に、世の全ての研究者に、歴史に真実を求める人々に宣言しておきたい。それは、世界史にも類例がなく、まさに世界に誇れるものかもしれない。また巧緻であり、日本独特のものである

かって世界は、ダ・ビンチ・コードというフイクションの暗号に騒いだが、本能寺コードの方が私にははるかに面白い。
なぜなら、それは国家の歴史を変えた事件に係わっている本物だからだ本能寺の変なくば、豊臣秀吉は存在せず、また徳川幕府の二百六十数年もなかったかもしれない。明治維新の変動もあったかどうか疑わしい。そうではないか? 

それほど影響のある歴史の転換点だったのだ。

なぜ、その事変の真実を示す暗号が、四百二十年近くも今まで存在した知識人の全てに発見されなかったのか? それは、本能寺の変、天正十年六月二日早暁の京都本能寺における織田信長襲殺事件は、明智光秀の身勝手な怨恨か、野望が原因とされるものであり、背景関係などはなく、従って暗号などは存在しないとする大きな思い込みによるものである

また先にも書いたように一通の手紙が存在した。親戚細川幽斎[当時藤孝]に宛てられた明智光秀の援軍要請の自筆手紙である。勿論、これは一流の参考文献には必ず載せられているものだから、研究者は皆知っているだろう。
「援軍もなく、皆に見捨てられた明智光秀が丹後領主の娘婿細川家に、泣いているかのように協力を求めた」とされ、内容も、文章も乱れているとされている。光秀自身の後悔と絶望を表しているかのように、、、、、、。

冒頭には「覚」、末尾には「光秀」の署名、花押、、、、
日付は六月九日。天王山の戦いの四日前である。

内容は、簡単に書くとまず細川親子の出家を仕方ないものとし、光秀も立腹したが、よく考えれば、それも当然かと納得する。しかし、こうなったら大身[重臣]でも出してくれないか、との嘆願。

次が、褒賞とする領地は摂津を用意している。但馬、若狭が望むならそれもいい。必ず貴方優先に差し上げる。

最後に、光秀が全く予想外のこと[原文では、我ら不慮の儀]をなしたのは忠興などを取り立てるためであり、他の考えはない。五十日、百日以内では近畿などの情勢も安定するだろうから、その後は十五郎[光秀の長男]や与一郎[忠興]などに引き渡して引退する。詳しいことは二人の使者が申し上げる。

原文「我等不慮之儀、存立候事、忠興なと取立可申とての儀ニ候。更無別条候」。

不慮の儀、これは動かしようがない、、と多くの博士、学者、研究者が考える。だが、これは穴なのだ
細川幽斎は、ただこの手紙を差し出しただけに過ぎない。前後の手紙、たとえば一通目の原書は無いのだ。脈絡の無い自筆の二通目のみを見て、皆が勝手な解釈をする。そして、原書が存在しない一通目には次のようなことが書かれてあったと細川家の記録にはある。

「信長、われに度々面目を失わせ、わがままのふるまいのみこれあるにつき、父子ともに討ち、長年の鬱積を散じた。貴殿にあってはさっそく、人数を召し連れられ、早々に上洛あれかし、摂津[大阪]がさいわい欠国でありますれば、ここを御知行なされよ」

大名家の記録を疑うものは無いだろう。かくて本能寺の変に背景、暗号は絶対に存在しえない、、、、。

だが、これの否定は簡単である。細川幽斎によって差し出された証拠は、細川幽斎によってのみ簡単に否定されうるのだ。彼は知っていた。信長が殺された本当の理由を、、、、。従ってこの手紙を出す必要があったのである。なぜなら、彼の先祖東陣細川勝元は一四六七年の応仁の大乱で北朝の後土御門天皇を旗印としているのである。[対する山名宗全は南朝小倉宮血筋の岡崎前門主]。

細川幽斎が貴族と深いパイプを持ち、後に歌の秘伝を伝授されたことは知られている。後の関が原のとき、丹後宮津城で西軍の大軍に囲まれての落城の危機を、歌の秘伝が絶えると朝廷に勅命で助けられたのは偶然ではないのだ

では、いかなる証拠品によって、明智光秀の自筆手紙は何の役にも立たなくなるのか? それは後に細川幽斎が京都に上り、本能寺焼け跡で開いた信長哀悼の連歌会においてである。
この有名な連歌会は、あの作家司馬遼太郎氏もその著作などで言及しているから、知らない人はいないだろう。この哀悼会に、当時の京都の有名人、貴人、富人は皆混じっていた。

その中で、細川幽斎は一句を発す。
「墨染めの夕や名残り、袖の露」、
実は、これだけで充分である。

二句は道叱の「魂まつる、野の月の秋風」、、、
「秋風
」これに注目して貰いたい。、、、これは厭き[あき]にかけられて厭き厭きしたとされる言葉であり、まさに哀悼の席の句にふさわしくない嫌悪言葉なのである。幽斎はそれをこの歴史的な会の二句目に許した。
では「魂まつる野の月」とは何なのか?

ここで、頭のいい人なら織田信長の最初の戒名、記録や絵の裏にある「天徳院」を思い出すだろう。天徳年間は災いが相次ぎ、三年で終わった。理由は「天徳は火雷天神の号にして忌むべし」であることは前にも述べた。火雷天神とは菅原道真公ともその眷属ともされる言葉である。菅原道真公の神号は「太政威徳天」でもある。

そして、その怒りを表すお姿は「天満大自在天神」であるという。また牛年に生まれ、牛を大事にし、愛されたことから「牛天神」なる言葉もあるのだ。では、牛は何で象徴されるのか? インドの牛崇拝と暴風雨神ルドラの合体であるヒンズー教の大主神シバは三日月で表されるのである。
三日月は、その形から剣や牛角にたとえられる

勿論、菅原道真公は徳の高い方だから、人にたたられるなど思いもよらなかっただろう。まさに公には迷惑な話である。しかし、その怒りのお姿をこの破壊神シバ神[仏教に入り、大自在天、象徴は仰半月]にかけて見たがる人々もいたのである。そう、にである。
魂を祭る野[田舎の意がある]の月、それに飽き飽きである」、とは何なのか?
勿論、十一面観音[菅原道真公の本地物]を、総見寺に自分の本尊として飾った信長にあてられているのだ。
原点は、魂が神社に祀られ、月で象徴されるあの天の神となったお方である。

では細川幽斎第一句の「袖の露」とは? 意味は、「深き悲しみの涙」であるが、露には別名「月のしずく」があるのである。梅雨が後につゆ、と言われたのは梅と露にかけられたからである。
月のしずく」、これなのである。

これが「袖の露」、深い悲しみになったものよ、、、二句秋風をそのまま残した幽斎のこころ、なのだ。

梅雨、ちなみに梅は天神様の象徴雨には涙、矢、事変の意があることは知っておられるだろう? 
明智光秀の日本一有名な句「ときは今、あめが下知る五月かな」は何の日に、何を詠んだものだったのか。梅雨である。幽斎の句は、そのしずくに掛けたものなのだ。
細川幽斎の出した証拠は、幽斎自身の態度、句によって否定されるのである

今までの説への補足も述べておこう。文字と言葉は昔、神だった
それは神の意思を伝えるものだった。

天徳院。織田信長の「」の字は何処から来たのか? 実は天徳院から考えると簡単である。京都北野天満宮の祭り神は菅原道真公だが、名は何故かそうなってない。由緒書きによれば「道信」なのである。大宰府天満宮では道真公だが。「道信」、これはよく史料を調べれば解る。そして、安土にあった清涼殿そっくりな建物、道真公が怒りの落雷をしたとされるのは「延長」八年である。

■神器が奪われた嘉吉三年の「嘉吉の変」の首謀者の一人は「尊秀王」という。ところで、「秀吉」なる名はどこから来たのかさっぱりわかっていない。

■信長の嫡子信忠、信雄を産んだ側室の名は、吉野とも書かれている。

■岐阜、岐山から国を起こした「周」には[まこと・忠]の字義、意味がある。南朝最後の王は自天王、忠義王。
織田信長の嫡子は信忠。岐阜。

■その自天王の名はどこから来たのか不明である。しかし、日本で普通、天王というときは八坂神社の祀神、牛頭天王を指すことが多い。また聖天には「大聖歓喜大自在天王」の別名がある。

いずれにせよ、本能寺の変には、戦国史最大の暗号、本能寺コードが実在する。それを私は、ここにはっきりと言っておきたい。この前映画「コロンブス」「1492コロンブス」を見たが、コロンブスの偉大さは、迷信や偏見にとらわれずあるべきものを推理、発見し、それを実証したところにあるという。では、なぜ、その繊細を私がここに書かないのかというと、その主な内容は此処に書かれているからである。

■本能寺の変は、本物の聖戦であり、朝廷説であり、明智光秀の軍事同盟者は柴田勝家であるこれ以外の答えはない
織田信長はおそらく下克上の仕上げとして京都を手に入れる最終目的があったであろう。その場合、帝位、朝廷がどうなったかは、信長の考えひとつだったはずだ。勿論、明智側の人々は、はっきり帝位に欲があるらしい、と考えているが。

本能寺の変の大謎とは何だったのか? 
それは事件が起きたのが怨恨か?、野望か?、それとも背後に黒幕がいるのか?、いるなら誰か? 動機は?、連絡方法は?というものだったはずだ。
私が研究を始めたとき、光秀は武田氏残党説と組んでいるというのが有力だった。その他の説は明確に理由が述べられ否定されていた。
朝廷説は? 綸旨が出ていない、光秀が官軍と明言していない、内裏に記録が無い、神官吉田兼見の日記には謀叛と言葉がある、などである。

だが、大軍[賎が岳では二万八千を動員した]を保有する柴田勝家が組んでいる以上、光秀は京都周囲を固めて待てばよかったのだ。誤算は、秀吉の存在だけだった。[いや、前田利家という気になる存在が後から柴田家中からは浮上してくるが、、]、私はここに、あなたが本能寺コードを見つけても、それは傍証にしかならないことも宣言する。ここと結論は全く同じ事を書くことになるだけだろう。少なくとも大筋は必ず似てしまう。

いずれにせよ、戦国史最大の暗号、本能寺・コードは世に実在する。
本当は、日本史二千年最大の暗号、世界史にも希なる本物の暗号としたい、、、が、日本には、まだ幾つか巨大な暗号が存在するらしいので、遠慮しておこう。

■勿論、世に勘違いされないように注意しておくが、それは決して私が捏造したり、偽造したものではない。戦国時代の明智光秀の崇拝者らが、光秀の行いを偉業と信じ作ったものだ

それに先鞭をつけたのは「聖戦、マハーカーラの女」大庭博著という書物である。これに初めて細川家所有の明智光秀の自筆手紙に匹敵する証拠が出た。
また今までこのブログに書いたことは、この本の補強にすぎない。それは、本物の本を読んだ人にはよくおわかりだろう? 
私はここで嘘は全く言っていない。道信と延長、天徳院、十一面観音も、細川幽斎の二句も世に実在する

日本史の地軸を大転換させた事件の真実、
それは、まさに日本史で唯一無二の巨大ダイヤではないのか? 

それを発見し、提唱し、主張するのが、なぜ民間研究家の私であってはいけないのか? いかなる歴史の謎もいつかは解かれる筈だ。それが民間研究家の私であってはいけないという掟でもあるのか? 最大の歴史の謎を解明するのは、東大か有名大学の教授、ノーベル賞受賞者、或いは直木賞、芥川賞作家でなくてはならない訳でもあるというのか? そのようなことが自由・平等を尊重する言論世界なら、あっていいはずもない。

民間研究家の諸氏よ、なぜ、民間研究家の私であってはいけないのか

歴史の真実、歴史では真実のみが価値を持ちうるはずだ。そして戦国史最大の暗号の価値は計り知れないだろう

私はその解読の書物を八十冊所持している。この本、色々、偽物、偽造やトラブルがあったので本物はここしかない。
サイン入りの本物を一冊、三百万円で、ビッグ、キングといわれる人に買ってもらいたい。そのひと、会社のみに出版権、映画化権をオークションで売ることにする。

日本史で唯一無二の本物のみの持つ強みである。私は、この手に持っている物が正真正銘の本物、二千年の真実の品物であることを誇りに思う。全てに嘘はない。この書物「聖戦、マハーカーラの女」大庭博著を否定する物、否定する者が虚偽なのだ。

この説への反論は必ず突き崩して見せよう。本能寺の真実の暗号を知る私にはそれが出来る。
日本歴史の唯一の真実にはいかなる権威、博士、学者、教授、たとえノーベル賞を貰った学者でも反論は出来ないなぜなら、必ず虚偽にはポロ、矛盾点が出るからだ。

もしこの本を否定したければ、その反論史料、証拠品、学者、論文を正式に提示し、実名でここに、こちらこそ本物、真実と断言してみせるように。

さて、連絡先は本人確認が確実になされている次の銀行口座のみである。他では決して、いや絶対に買わないように。本の送り先を添えておくように。

西日本シティ銀行、店番号003 
普通預金口座番号1739448 名前 大庭 博。

西日本シティ銀行。
店番号003 普通預金口座番号 1739448

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本能寺の変、織田信長は南朝だったのか?

■それにしても織田信長は、何故、かくも大和朝廷に挑戦的なのであろうか? 

真実が明らかになるにつけ、出てくるのはまさに朝廷との対立である。岐阜の地名、天下布武の印章で周の武王を気取っていること、また薬師如来や牛頭天王への執着、そしてキリスト教の導入、天主なる巨塔、、、、、 

また、他にも信長には幾つか不思議ながある。一番奇妙なのは、数多く居たという側室の名前、出自が殆ど解らないことだろう。中でも嫡子たる信忠、次男信雄の生母の名前、出自、家系すらよく解らないとはどういうことなのか?故意か、偶然なのか? 不思議な気がする。

だが、ある日、その家の情報らしきものが出た。偽書「武功夜話」とされるものである。尾張の豪族前野家の壁の中から近年偶然に発見されたとする記録であるが、嫡子信忠、信雄、五徳姫の母について初めて書いてあった。

それによれば、名は吉乃[吉野とも]。その家は生駒家といい、文和年間、十四世紀の半ば、あたりから尾張稲木庄郡村に住んだとする。生駒という名は河内国生駒出身だったからという。実は、もともとの名前は全く不明である。

文和年間、一三五二年あたりと言えば、後醍醐天皇の死から、南北朝の混乱、足利一族の尊氏直義の内紛などで河内が混乱の極みにあった時代である。そのとき、生駒家は何かのトラブル、戦乱に巻き込まれ、京都六波羅探題などから逃げ、大和、吉野や河内生駒山中にいたところを前野家に何かの奇縁があり、「生駒」という姓で尾張に住んだ。そこで焼き物の灰薬、油なとの商売をし、急成長し、富豪になったのだという。

その屋敷は巨大で、土居、堀を備え、厳重な門備えと、幾つかの蔵を合わせ備えていたというのだから、よそ者にしては大変な成功である。さらに、何故か、諸国の情報に詳しく通じる者が数人おり、その配下は一千人という土族蜂須賀小六もいたとする。書物の中には、信長の頼みを受け、美濃の城を僅かな手勢を使ってあっという間に攻め落とした食客の話も出てくる。

尤も、この武功夜話は研究家藤本正行氏などによって偽書とされているので、語っても何の益もないかもしれない。

だが、こんな大長編の記録を全くの空想で書けるのか?という素朴な疑惑もある。
そして、中にはかなり気になる記述があるのだ。それは京都六波羅探題に追われて、生駒山に居た、生駒にちなんで名を付けたとする記述である。

京都に追われるとは、大体南朝贔屓であることが多い。[勿論南北朝の争乱を歴史研究家で知らない人はいないだろうから省略するが、後醍醐天皇と足利尊氏の争乱で生まれた、京都と吉野、両朝廷の対立のこと、太平記の世界のことである]

そして生駒山には、実は日本で一番有名な聖天宮があるのだ。この聖天というのは南朝の後醍醐天皇が最も信仰した神なのだ。詳しく言えば、象頭人身の二神が立って抱擁している、二神で一身とされる像である。片方は十一面観音の化身、もう一方は象鬼王であるとされる。災いで人民を困らせていた象王を、十一面観音がその慈悲と愛の力で感化し、善神にしたとするものである。これを後醍醐天皇は国難排除のためによく信仰したとされるのだが、荒神と観音の抱擁像も聖天とされる。

信長の安土城で天主の地は薬師如来の霊地、続いている横の山は観音寺山。そして信長が神宣言をした総見寺の本尊は十一面観音である。

また信長が強く押した「天正」なる元号はとなりの中国にもあるが、その時の王の名は「豫章王」、豫とは「巨象」を示す文字である。

信長の跡継ぎ信忠を生んだのが、その生駒山に名のちなんだ家の女なのは、偶然の一致なのだろうか? 

そればかりではない、次男信雄、三男信孝は養子に行っているが、その北畠家[信雄]、神戸家[信孝]、いずれも南朝で活躍した名家なのだ。ここではそれについて詳しく書けないが、繊細は歴史を見てもらいたい。信長は、まず北伊勢あたりを勢力圏に納めたが、南朝の勢力の強かったところである。

これは偶然なのか? 私の心にはひとつの疑問が生まれたことがある。

それは織田信長が尾張半国から異常な出世をした背景、桶狭間の奇跡の勝利の裏には南朝の遺臣団が何か関係していたのではないかという疑問である。

桶狭間で奇妙な敗北死をした今川義元は北朝の足利家だった。そして美濃制圧後の「岐阜」なる地名、天下布武なる周の武王のごとき印章、、、いずれも暗に、誰か、何らかの勢力に対するメッセージではなかったのだろうか? 武王は殷の悪辣な暴君を倒して、新王朝を開いたのである。 そして上総介なる官名、築土神社[田安明神]の平将門は反体制のシンボルだったのかもしれない。

出自の解らない生駒家が、尾張で驚くほどの財力、多くの武装兵、武将のような、或いは諸国の情報に詳しい数人の食客、平城のような建物を保有していたのは偶然なのだろうか? 

勿論、北朝の天皇は、南朝の天皇家より正式に禅譲と神器を受け、帝位を継いでいる。明治天皇は、南朝の楠正成と一族の忠誠心と湊川会戦での討ち死になどを賞賛し、湊川神社の創建、正一位の贈位をしている。現代において、天照大神の御血筋と帝位に別に問題があるわけでもないのだが、この当時、つまり足利幕府の時代に武士がこの問題をどう考えていたのかはよく解らない。

日本史において南朝は、後醍醐天皇延元元年[一三三六]から元中九年[一三九二]までで終わった。足利尊氏によって分裂した南北朝は合体したが、北朝ー南朝ー北朝ー南朝と交互に帝位につくとする約束はなされず、足利義満によって、応永十九年[一四一二]、北朝後小松天皇から北朝称光天皇に譲位されてしまった。

南朝は経済的にも困窮したが、まだ吉野、十津川、川上などの人民には強く支持されていた。ついに嘉吉三年[一四四三]九月二十三日、楠木二郎正秀が、上御門内裏を襲撃、三種の神器を奪取して、万寿寺親王[南朝 後亀山上皇の皇子小倉親王の子]、天基親王[小倉親王の子]と共に比叡山に篭城する。
だが、北朝の追撃で両親王は自害し、神剣と神鏡は取り戻された。[禁闕の変という]

神璽[勾玉]のみが、楠木、越智氏の軍により、万寿寺親王の息子一ノ宮[自天王]、二ノ宮[忠義王]とともに、奥吉野の山間に逃れた。年号を天靖とし、自天王は北山村、忠義王は神之谷村に行宮を建てたという。以後、十数年、神璽を奉じた。

だが、ついに最後がきた。足利幕府は嘉吉の変で滅亡した赤松家の遺臣団を利用した。赤松家の遺臣団は策を弄し、降伏と協力を申し出て、自天王に取り入った。遺臣団は長禄元年[一四五七]十二月二日、大雪の日に自天王と忠義王の御所を襲った。自天王は斬死にし、神璽は奪われた。忠義王も高原まで逃げたが、病死した。赤松家には神璽を取り返せば、家を再興するとの約束が幕府になされていたのである。[長禄の変]

北山、川上の人民は三之公御所において、毎年二月五日、自天王生前の武具、鎧兜を御神体とし、式典を南朝ゆかりの人々と行っているという。自天王の遺せし句とされるのも存在する。

「逃れ来て、身を奥山の、柴の戸に、月とぞあわせど住む」

不思議な一致は幾つかある。

自天王、、、、信長の牛頭天王への奇妙な執着、、、
信長の長男は幼名奇妙丸であるが、これは満ち隠れするを表すという。そして、忠義王、、、信長の跡継ぎ長男の名は信忠、、、、
三之公御所、、、信長には三介と名があったし、信忠の長子は「三法師」である。そして、北畠信雄、神戸信孝、、、と、南朝の遺臣の家に送られた実子たち、、、

織田信長は、ルイスフロイスの著述によれば、かなり潔癖であり、名誉心に富み、正義において厳格であったと観察されている。そして、人々は彼に対し、絶対君主に[対しているように]服従したとする。このあと、神や仏へ礼拝、卜占、迷信の軽蔑者、霊魂来世はないと見なした、と書かれている。
この言葉に私は異論もあるが、一応そうだと見なす推理面からも考えてみよう。

その彼が、何ゆえに聖天形の霊地に本城、天主、十一面観音を選んだのだろうか? 

だが、信長は何か南朝に関係していたのではないか、利用していたのではないか? その勢力の後押しがあったから桶狭間で勝ち、美濃を手に入れることが出来た。

それ故、その天下への場を岐阜とし、天下布武なる印で自らを武王とする必要があったのではないか? そんな空想、推理も膨らむのである、、、、、人はそれまでの歴史、血があってこそ生まれてくるのだ。

証拠は何もない。しかし、ひとつの可能性は、歴史への推理、可能性を膨らませる。いや、偽書をもとに歴史を語るのは世に恐れ多いことかもしれない。ここでのことは戯言、ただの仮説として受け取ってもらいたい。

しかし織田信長の物語は、もしかすると暴君を討つという正義感に溢れた青年が、天下、覇権、帝位という全てが手に入るという物を、その目の前にしたとき、天魔に魅入られてしまった物語だったのかもしれないと時々思うこともある。

その人生は、ドイツの哲学者ニーチェの著作の言葉そのものだったのかもしれない、、、

深淵を見つめるものは、自らも深淵に取り込まれないように注意しなければならないなぜなら、彼が深淵をじっと見つめていると同じように深淵もまた彼をじっと見つめているからである

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本能寺の変、織田信長は大和朝廷をどうするつもりだったのか?

■織田信長はその先をどうするつもりだったのか? 何を考えていたのか?■

大和朝廷をどうしようと考えていたのか? 幾つか、考えられるキー、可能性はある。

ひとつは、研究家明石散人氏が提唱するように、まず正親町天皇から誠仁親王への譲位、その後、これを手早く退位、或いは暗殺し、信長が猶子とした五宮[誠仁親王の実子]へ譲位させ、信忠の娘と婚姻、信長自身は天皇の外戚、つまり治天の君として君臨する、というもの。だが、この説にはそれならこの少し前の三職推任の征夷大将軍、太政大臣、関白の何れかの地位を受けているのではとの疑問もある。朝廷の権威の利用には、それなりの地位を持っているほうがいいからだ。

二つ目は、美濃を制圧したとき使用した「岐阜」なる地名、天下布武なる印章を手掛かりとするもの。
この岐阜とは岐山、中国の周の武王が殷の暴君を倒して新王朝周を興した地名に起因するものであるから、その歴史にちなみ、攻め滅ぼすというもの。「天下布武」なる印章、「天下に武を布く」とは「武王」を意味すると取れないこともない。尤も美濃を手に入れた程度で、天下を狙うか、新王朝を考えるかと言われれば疑問も出る。景気づけ、縁起もち程度と考えられなくもないが。

三つ目は「安土城」なる地名、これを平将門の首を関東で祀った神社「築土神社」、別名「田安明神」に因んだものと考える線である。平将門は承平天慶の乱のとき、巫女の神託、菅原道真公が八幡大神の仲介をした、或いは八幡大神と菅原道真公が連署をした、なる形で「新皇」と号した。そして一時とはいえ、関東などでこれを認める動きがあった、その故事にちなむものである。

これは安土に天主なる塔があり、下の清涼殿に似た建物と空中階段で繋がれていること、信長の生き神宣言をした総見寺本尊が十一面観音菅原道真公の本地仏であることを考えると可能性がなくもない。武人としてはごく簡単だし、関東武士などの支持もあるかもしれない。
付け加えるなら平将門を菅原道真公の生まれ変わりと見る雷神伝説などがあった。

もっとも権勢争いに利用される菅原道真公や八幡大神にはいい迷惑なのだが。

四番目は、信長の神体とされる盆山なる石、安土城が薬師如来の霊地であることに注目することである。知ってのとおり信長の氏神とされる牛頭天王、小さいころ信長はこの神にちなむお守りを持っていたらしいのだが、これは薬師如来の化形身である。そして、牛頭天王は神道の神話にでるスサノオノミコトと同神とされる。そのスサノオノミコトは出雲の建国神であり、配偶者クシイナダ姫の子、或いは七世の孫とされるのが大国主命[大黒天と同神とされる」である。

神道の国譲りの神話によれば、天照大神の命を受けたタケイカズチノミコト、フツヌシ神との力比べに破れ、大国主命は納得してこの国を天照大神に譲り、天孫降臨に繋がった。

ところで天正九年二月二十八日、信長は内裏側において、大馬揃えを行い、まるで唐の皇帝のような格好をし、武威を見せつけたが、そのとき乗っていた馬の名前は「大黒」であり、梅の花を首の後ろに挿していたという。面白い一致であり、また「唐渡り天神」という菅原道真公の別名を意識しているかのような服装である。[普通は大黒は大黒天の略とされる]
本能寺直前に、信長が行く場所は中国毛利であり、この国譲りの場所だった、いなさの浜があるのだ。何か、神話を逆利用しても不思議ではない雰囲気が、天皇に見せた服装にはある。

中国においては、禅譲という形式がよく行われた。これは皇帝が徳のある人に帝位を譲るというものである。中国の聖人、三皇、五帝が徳あるをもって帝位を次に譲った故事にちなむ。すなわち天災が続くのは王の徳がないため、豊穣が続くは王に徳があるためとする考え方からきたという。

有名なのは中国の漢の献帝が魏の曹丕に譲ったものである。尤も周囲を魏の家臣に囲まれ、殆ど無理やりにであったが、献帝は二人の皇女を車に乗せ、玉璽を捧げて、魏王宮に行かせた。魏はこれを数度、拒否した後、高台を造営し、受禅台と名づけて、吉月吉日、献帝自ら玉璽を捧げて、魏王にこれを禅譲するという大典を、三十万の官、軍兵の見守る中で行ったのである。

また中国の皇帝は必ず封禅なる儀式、自分が皇帝になったという神への報告を聖地泰山で行ったが、スサノオノミコトはその泰山の精である「泰山府君」と合祀されるという不思議な一致がある。

なんにせよ、キリスト教を導入した背景にも、ローマ法王に日本の国王と認められれば世界的認識になると考えていた可能性もあった。
京都大馬揃えのとき、日本の国家元首を天皇と見ていた宣教師ヴァリニャーニは信長へ、内裏への仲介を頼んだ。そのとき、信長は不愉快そうな顔で言った。
「余の居る場所では汝らは他のものの寵愛を得る必要がない。なぜなら、余が国王であり、内裏であるからである

なんにせよ、大和朝廷が残るにせよ、それは信長と織田家に大きな箔をつけるという形でしかなかっただろう。

信長はこれまでの大名とは違うのである、彼は尾張半国から様々な権謀術数と新兵器、新戦法で勝ち残ってきたのであり、その部下は子飼いで、大将らは軍団を預けられ、命令されて動いているのであり、殆ど強烈な恐れられた独裁者だった。

司馬遼太郎は権威者となった徳川家康について次の如く書いている。
それは家康がある大名らに小牧長久手の戦いのころの鎧を指し示し、「貴公、これを覚えておらられるか?」というだけで、大変な恫喝になったというのだ。それは家康が相手の生殺与奪の権を握るほどの力があるからである。別に家康にその気がなくても相手は何か言葉に裏があるのではと疑い、そうなるのだという。

それがこの時代の力、権力というものだろう。

信長の場合は?

その過去はまさに延暦寺焼き討ち、一向一揆虐殺、浅井、朝倉、武田家への戦いといい、家康以上の威圧があったに違いない。事実、安土城で会見したフロイスは家臣皆が信長を恐れ、その顔色を伺い、手を振るだけで慌てて姿が掻き消えたと書いている。

信長の言った何気ない一言でも、その言葉に何か裏があるのか、人々は色々と考えたに違いない。京都、天皇家を邪魔にするような、あるいは何かその対応が気に入らないようなことを言えば、その言葉は相手に対して大変な恫喝、威圧になった可能性は高い。そして家臣たちもその言葉に何か裏があるのか、色々と詮索しただろう。

織田信長は何を考えていたのか? 何も考えていなかったとしても、相手がそのひとつの言葉を大袈裟な意味にとり、それによって明智光秀、柴田勝家が動いたとすれば、それはもう立派な歴史の理由のひとつとなるだろう。

天正十年六月二日、京都本能寺の変において、織田信長は死んだ。

そのとき六月二日、早暁に死ぬことに、かって第六天魔王信長と豪語した過去、中国礼記の「天に二日無し、土に二王なし」の言葉を思い出したか? 早暁に朝廷を感じたか?

それとも何ゆえ自分が此処で死ぬことになったのか理解できなかったか?彼の心底を知ることはない。
だが、、、、、

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