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本能寺の変、織田信長は大和朝廷をどうするつもりだったのか?

■織田信長はその先をどうするつもりだったのか? 何を考えていたのか?■

大和朝廷をどうしようと考えていたのか? 幾つか、考えられるキー、可能性はある。

ひとつは、研究家明石散人氏が提唱するように、まず正親町天皇から誠仁親王への譲位、その後、これを手早く退位、或いは暗殺し、信長が猶子とした五宮[誠仁親王の実子]へ譲位させ、信忠の娘と婚姻、信長自身は天皇の外戚、つまり治天の君として君臨する、というもの。だが、この説にはそれならこの少し前の三職推任の征夷大将軍、太政大臣、関白の何れかの地位を受けているのではとの疑問もある。朝廷の権威の利用には、それなりの地位を持っているほうがいいからだ。

二つ目は、美濃を制圧したとき使用した「岐阜」なる地名、天下布武なる印章を手掛かりとするもの。
この岐阜とは岐山、中国の周の武王が殷の暴君を倒して新王朝周を興した地名に起因するものであるから、その歴史にちなみ、攻め滅ぼすというもの。「天下布武」なる印章、「天下に武を布く」とは「武王」を意味すると取れないこともない。尤も美濃を手に入れた程度で、天下を狙うか、新王朝を考えるかと言われれば疑問も出る。景気づけ、縁起もち程度と考えられなくもないが。

三つ目は「安土城」なる地名、これを平将門の首を関東で祀った神社「築土神社」、別名「田安明神」に因んだものと考える線である。平将門は承平天慶の乱のとき、巫女の神託、菅原道真公が八幡大神の仲介をした、或いは八幡大神と菅原道真公が連署をした、なる形で「新皇」と号した。そして一時とはいえ、関東などでこれを認める動きがあった、その故事にちなむものである。

これは安土に天主なる塔があり、下の清涼殿に似た建物と空中階段で繋がれていること、信長の生き神宣言をした総見寺本尊が十一面観音菅原道真公の本地仏であることを考えると可能性がなくもない。武人としてはごく簡単だし、関東武士などの支持もあるかもしれない。
付け加えるなら平将門を菅原道真公の生まれ変わりと見る雷神伝説などがあった。

もっとも権勢争いに利用される菅原道真公や八幡大神にはいい迷惑なのだが。

四番目は、信長の神体とされる盆山なる石、安土城が薬師如来の霊地であることに注目することである。知ってのとおり信長の氏神とされる牛頭天王、小さいころ信長はこの神にちなむお守りを持っていたらしいのだが、これは薬師如来の化形身である。そして、牛頭天王は神道の神話にでるスサノオノミコトと同神とされる。そのスサノオノミコトは出雲の建国神であり、配偶者クシイナダ姫の子、或いは七世の孫とされるのが大国主命[大黒天と同神とされる」である。

神道の国譲りの神話によれば、天照大神の命を受けたタケイカズチノミコト、フツヌシ神との力比べに破れ、大国主命は納得してこの国を天照大神に譲り、天孫降臨に繋がった。

ところで天正九年二月二十八日、信長は内裏側において、大馬揃えを行い、まるで唐の皇帝のような格好をし、武威を見せつけたが、そのとき乗っていた馬の名前は「大黒」であり、梅の花を首の後ろに挿していたという。面白い一致であり、また「唐渡り天神」という菅原道真公の別名を意識しているかのような服装である。[普通は大黒は大黒天の略とされる]
本能寺直前に、信長が行く場所は中国毛利であり、この国譲りの場所だった、いなさの浜があるのだ。何か、神話を逆利用しても不思議ではない雰囲気が、天皇に見せた服装にはある。

中国においては、禅譲という形式がよく行われた。これは皇帝が徳のある人に帝位を譲るというものである。中国の聖人、三皇、五帝が徳あるをもって帝位を次に譲った故事にちなむ。すなわち天災が続くのは王の徳がないため、豊穣が続くは王に徳があるためとする考え方からきたという。

有名なのは中国の漢の献帝が魏の曹丕に譲ったものである。尤も周囲を魏の家臣に囲まれ、殆ど無理やりにであったが、献帝は二人の皇女を車に乗せ、玉璽を捧げて、魏王宮に行かせた。魏はこれを数度、拒否した後、高台を造営し、受禅台と名づけて、吉月吉日、献帝自ら玉璽を捧げて、魏王にこれを禅譲するという大典を、三十万の官、軍兵の見守る中で行ったのである。

また中国の皇帝は必ず封禅なる儀式、自分が皇帝になったという神への報告を聖地泰山で行ったが、スサノオノミコトはその泰山の精である「泰山府君」と合祀されるという不思議な一致がある。

なんにせよ、キリスト教を導入した背景にも、ローマ法王に日本の国王と認められれば世界的認識になると考えていた可能性もあった。
京都大馬揃えのとき、日本の国家元首を天皇と見ていた宣教師ヴァリニャーニは信長へ、内裏への仲介を頼んだ。そのとき、信長は不愉快そうな顔で言った。
「余の居る場所では汝らは他のものの寵愛を得る必要がない。なぜなら、余が国王であり、内裏であるからである

なんにせよ、大和朝廷が残るにせよ、それは信長と織田家に大きな箔をつけるという形でしかなかっただろう。

信長はこれまでの大名とは違うのである、彼は尾張半国から様々な権謀術数と新兵器、新戦法で勝ち残ってきたのであり、その部下は子飼いで、大将らは軍団を預けられ、命令されて動いているのであり、殆ど強烈な恐れられた独裁者だった。

司馬遼太郎は権威者となった徳川家康について次の如く書いている。
それは家康がある大名らに小牧長久手の戦いのころの鎧を指し示し、「貴公、これを覚えておらられるか?」というだけで、大変な恫喝になったというのだ。それは家康が相手の生殺与奪の権を握るほどの力があるからである。別に家康にその気がなくても相手は何か言葉に裏があるのではと疑い、そうなるのだという。

それがこの時代の力、権力というものだろう。

信長の場合は?

その過去はまさに延暦寺焼き討ち、一向一揆虐殺、浅井、朝倉、武田家への戦いといい、家康以上の威圧があったに違いない。事実、安土城で会見したフロイスは家臣皆が信長を恐れ、その顔色を伺い、手を振るだけで慌てて姿が掻き消えたと書いている。

信長の言った何気ない一言でも、その言葉に何か裏があるのか、人々は色々と考えたに違いない。京都、天皇家を邪魔にするような、あるいは何かその対応が気に入らないようなことを言えば、その言葉は相手に対して大変な恫喝、威圧になった可能性は高い。そして家臣たちもその言葉に何か裏があるのか、色々と詮索しただろう。

織田信長は何を考えていたのか? 何も考えていなかったとしても、相手がそのひとつの言葉を大袈裟な意味にとり、それによって明智光秀、柴田勝家が動いたとすれば、それはもう立派な歴史の理由のひとつとなるだろう。

天正十年六月二日、京都本能寺の変において、織田信長は死んだ。

そのとき六月二日、早暁に死ぬことに、かって第六天魔王信長と豪語した過去、中国礼記の「天に二日無し、土に二王なし」の言葉を思い出したか? 早暁に朝廷を感じたか?

それとも何ゆえ自分が此処で死ぬことになったのか理解できなかったか?彼の心底を知ることはない。
だが、、、、、

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