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本能寺の変、織田信長は南朝だったのか?

■それにしても織田信長は、何故、かくも大和朝廷に挑戦的なのであろうか? 

真実が明らかになるにつけ、出てくるのはまさに朝廷との対立である。岐阜の地名、天下布武の印章で周の武王を気取っていること、また薬師如来や牛頭天王への執着、そしてキリスト教の導入、天主なる巨塔、、、、、 

また、他にも信長には幾つか不思議ながある。一番奇妙なのは、数多く居たという側室の名前、出自が殆ど解らないことだろう。中でも嫡子たる信忠、次男信雄の生母の名前、出自、家系すらよく解らないとはどういうことなのか?故意か、偶然なのか? 不思議な気がする。

だが、ある日、その家の情報らしきものが出た。偽書「武功夜話」とされるものである。尾張の豪族前野家の壁の中から近年偶然に発見されたとする記録であるが、嫡子信忠、信雄、五徳姫の母について初めて書いてあった。

それによれば、名は吉乃[吉野とも]。その家は生駒家といい、文和年間、十四世紀の半ば、あたりから尾張稲木庄郡村に住んだとする。生駒という名は河内国生駒出身だったからという。実は、もともとの名前は全く不明である。

文和年間、一三五二年あたりと言えば、後醍醐天皇の死から、南北朝の混乱、足利一族の尊氏直義の内紛などで河内が混乱の極みにあった時代である。そのとき、生駒家は何かのトラブル、戦乱に巻き込まれ、京都六波羅探題などから逃げ、大和、吉野や河内生駒山中にいたところを前野家に何かの奇縁があり、「生駒」という姓で尾張に住んだ。そこで焼き物の灰薬、油なとの商売をし、急成長し、富豪になったのだという。

その屋敷は巨大で、土居、堀を備え、厳重な門備えと、幾つかの蔵を合わせ備えていたというのだから、よそ者にしては大変な成功である。さらに、何故か、諸国の情報に詳しく通じる者が数人おり、その配下は一千人という土族蜂須賀小六もいたとする。書物の中には、信長の頼みを受け、美濃の城を僅かな手勢を使ってあっという間に攻め落とした食客の話も出てくる。

尤も、この武功夜話は研究家藤本正行氏などによって偽書とされているので、語っても何の益もないかもしれない。

だが、こんな大長編の記録を全くの空想で書けるのか?という素朴な疑惑もある。
そして、中にはかなり気になる記述があるのだ。それは京都六波羅探題に追われて、生駒山に居た、生駒にちなんで名を付けたとする記述である。

京都に追われるとは、大体南朝贔屓であることが多い。[勿論南北朝の争乱を歴史研究家で知らない人はいないだろうから省略するが、後醍醐天皇と足利尊氏の争乱で生まれた、京都と吉野、両朝廷の対立のこと、太平記の世界のことである]

そして生駒山には、実は日本で一番有名な聖天宮があるのだ。この聖天というのは南朝の後醍醐天皇が最も信仰した神なのだ。詳しく言えば、象頭人身の二神が立って抱擁している、二神で一身とされる像である。片方は十一面観音の化身、もう一方は象鬼王であるとされる。災いで人民を困らせていた象王を、十一面観音がその慈悲と愛の力で感化し、善神にしたとするものである。これを後醍醐天皇は国難排除のためによく信仰したとされるのだが、荒神と観音の抱擁像も聖天とされる。

信長の安土城で天主の地は薬師如来の霊地、続いている横の山は観音寺山。そして信長が神宣言をした総見寺の本尊は十一面観音である。

また信長が強く押した「天正」なる元号はとなりの中国にもあるが、その時の王の名は「豫章王」、豫とは「巨象」を示す文字である。

信長の跡継ぎ信忠を生んだのが、その生駒山に名のちなんだ家の女なのは、偶然の一致なのだろうか? 

そればかりではない、次男信雄、三男信孝は養子に行っているが、その北畠家[信雄]、神戸家[信孝]、いずれも南朝で活躍した名家なのだ。ここではそれについて詳しく書けないが、繊細は歴史を見てもらいたい。信長は、まず北伊勢あたりを勢力圏に納めたが、南朝の勢力の強かったところである。

これは偶然なのか? 私の心にはひとつの疑問が生まれたことがある。

それは織田信長が尾張半国から異常な出世をした背景、桶狭間の奇跡の勝利の裏には南朝の遺臣団が何か関係していたのではないかという疑問である。

桶狭間で奇妙な敗北死をした今川義元は北朝の足利家だった。そして美濃制圧後の「岐阜」なる地名、天下布武なる周の武王のごとき印章、、、いずれも暗に、誰か、何らかの勢力に対するメッセージではなかったのだろうか? 武王は殷の悪辣な暴君を倒して、新王朝を開いたのである。 そして上総介なる官名、築土神社[田安明神]の平将門は反体制のシンボルだったのかもしれない。

出自の解らない生駒家が、尾張で驚くほどの財力、多くの武装兵、武将のような、或いは諸国の情報に詳しい数人の食客、平城のような建物を保有していたのは偶然なのだろうか? 

勿論、北朝の天皇は、南朝の天皇家より正式に禅譲と神器を受け、帝位を継いでいる。明治天皇は、南朝の楠正成と一族の忠誠心と湊川会戦での討ち死になどを賞賛し、湊川神社の創建、正一位の贈位をしている。現代において、天照大神の御血筋と帝位に別に問題があるわけでもないのだが、この当時、つまり足利幕府の時代に武士がこの問題をどう考えていたのかはよく解らない。

日本史において南朝は、後醍醐天皇延元元年[一三三六]から元中九年[一三九二]までで終わった。足利尊氏によって分裂した南北朝は合体したが、北朝ー南朝ー北朝ー南朝と交互に帝位につくとする約束はなされず、足利義満によって、応永十九年[一四一二]、北朝後小松天皇から北朝称光天皇に譲位されてしまった。

南朝は経済的にも困窮したが、まだ吉野、十津川、川上などの人民には強く支持されていた。ついに嘉吉三年[一四四三]九月二十三日、楠木二郎正秀が、上御門内裏を襲撃、三種の神器を奪取して、万寿寺親王[南朝 後亀山上皇の皇子小倉親王の子]、天基親王[小倉親王の子]と共に比叡山に篭城する。
だが、北朝の追撃で両親王は自害し、神剣と神鏡は取り戻された。[禁闕の変という]

神璽[勾玉]のみが、楠木、越智氏の軍により、万寿寺親王の息子一ノ宮[自天王]、二ノ宮[忠義王]とともに、奥吉野の山間に逃れた。年号を天靖とし、自天王は北山村、忠義王は神之谷村に行宮を建てたという。以後、十数年、神璽を奉じた。

だが、ついに最後がきた。足利幕府は嘉吉の変で滅亡した赤松家の遺臣団を利用した。赤松家の遺臣団は策を弄し、降伏と協力を申し出て、自天王に取り入った。遺臣団は長禄元年[一四五七]十二月二日、大雪の日に自天王と忠義王の御所を襲った。自天王は斬死にし、神璽は奪われた。忠義王も高原まで逃げたが、病死した。赤松家には神璽を取り返せば、家を再興するとの約束が幕府になされていたのである。[長禄の変]

北山、川上の人民は三之公御所において、毎年二月五日、自天王生前の武具、鎧兜を御神体とし、式典を南朝ゆかりの人々と行っているという。自天王の遺せし句とされるのも存在する。

「逃れ来て、身を奥山の、柴の戸に、月とぞあわせど住む」

不思議な一致は幾つかある。

自天王、、、、信長の牛頭天王への奇妙な執着、、、
信長の長男は幼名奇妙丸であるが、これは満ち隠れするを表すという。そして、忠義王、、、信長の跡継ぎ長男の名は信忠、、、、
三之公御所、、、信長には三介と名があったし、信忠の長子は「三法師」である。そして、北畠信雄、神戸信孝、、、と、南朝の遺臣の家に送られた実子たち、、、

織田信長は、ルイスフロイスの著述によれば、かなり潔癖であり、名誉心に富み、正義において厳格であったと観察されている。そして、人々は彼に対し、絶対君主に[対しているように]服従したとする。このあと、神や仏へ礼拝、卜占、迷信の軽蔑者、霊魂来世はないと見なした、と書かれている。
この言葉に私は異論もあるが、一応そうだと見なす推理面からも考えてみよう。

その彼が、何ゆえに聖天形の霊地に本城、天主、十一面観音を選んだのだろうか? 

だが、信長は何か南朝に関係していたのではないか、利用していたのではないか? その勢力の後押しがあったから桶狭間で勝ち、美濃を手に入れることが出来た。

それ故、その天下への場を岐阜とし、天下布武なる印で自らを武王とする必要があったのではないか? そんな空想、推理も膨らむのである、、、、、人はそれまでの歴史、血があってこそ生まれてくるのだ。

証拠は何もない。しかし、ひとつの可能性は、歴史への推理、可能性を膨らませる。いや、偽書をもとに歴史を語るのは世に恐れ多いことかもしれない。ここでのことは戯言、ただの仮説として受け取ってもらいたい。

しかし織田信長の物語は、もしかすると暴君を討つという正義感に溢れた青年が、天下、覇権、帝位という全てが手に入るという物を、その目の前にしたとき、天魔に魅入られてしまった物語だったのかもしれないと時々思うこともある。

その人生は、ドイツの哲学者ニーチェの著作の言葉そのものだったのかもしれない、、、

深淵を見つめるものは、自らも深淵に取り込まれないように注意しなければならないなぜなら、彼が深淵をじっと見つめていると同じように深淵もまた彼をじっと見つめているからである

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