本能寺の変、戦国史最大の暗号「本能寺・コード」は実在する!!

日本史の真実
戦国史最大の暗号、本能寺・コードは世に実在する!!■

それを私ははっきりと、世の中に、世の全ての研究者に、歴史に真実を求める人々に宣言しておきたい。それは、世界史にも類例がなく、まさに世界に誇れるものかもしれない。また巧緻であり、日本独特のものである

かって世界は、ダ・ビンチ・コードというフイクションの暗号に騒いだが、本能寺コードの方が私にははるかに面白い。
なぜなら、それは国家の歴史を変えた事件に係わっている本物だからだ本能寺の変なくば、豊臣秀吉は存在せず、また徳川幕府の二百六十数年もなかったかもしれない。明治維新の変動もあったかどうか疑わしい。そうではないか? 

それほど影響のある歴史の転換点だったのだ。

なぜ、その事変の真実を示す暗号が、四百二十年近くも今まで存在した知識人の全てに発見されなかったのか? それは、本能寺の変、天正十年六月二日早暁の京都本能寺における織田信長襲殺事件は、明智光秀の身勝手な怨恨か、野望が原因とされるものであり、背景関係などはなく、従って暗号などは存在しないとする大きな思い込みによるものである

また先にも書いたように一通の手紙が存在した。親戚細川幽斎[当時藤孝]に宛てられた明智光秀の援軍要請の自筆手紙である。勿論、これは一流の参考文献には必ず載せられているものだから、研究者は皆知っているだろう。
「援軍もなく、皆に見捨てられた明智光秀が丹後領主の娘婿細川家に、泣いているかのように協力を求めた」とされ、内容も、文章も乱れているとされている。光秀自身の後悔と絶望を表しているかのように、、、、、、。

冒頭には「覚」、末尾には「光秀」の署名、花押、、、、
日付は六月九日。天王山の戦いの四日前である。

内容は、簡単に書くとまず細川親子の出家を仕方ないものとし、光秀も立腹したが、よく考えれば、それも当然かと納得する。しかし、こうなったら大身[重臣]でも出してくれないか、との嘆願。

次が、褒賞とする領地は摂津を用意している。但馬、若狭が望むならそれもいい。必ず貴方優先に差し上げる。

最後に、光秀が全く予想外のこと[原文では、我ら不慮の儀]をなしたのは忠興などを取り立てるためであり、他の考えはない。五十日、百日以内では近畿などの情勢も安定するだろうから、その後は十五郎[光秀の長男]や与一郎[忠興]などに引き渡して引退する。詳しいことは二人の使者が申し上げる。

原文「我等不慮之儀、存立候事、忠興なと取立可申とての儀ニ候。更無別条候」。

不慮の儀、これは動かしようがない、、と多くの博士、学者、研究者が考える。だが、これは穴なのだ
細川幽斎は、ただこの手紙を差し出しただけに過ぎない。前後の手紙、たとえば一通目の原書は無いのだ。脈絡の無い自筆の二通目のみを見て、皆が勝手な解釈をする。そして、原書が存在しない一通目には次のようなことが書かれてあったと細川家の記録にはある。

「信長、われに度々面目を失わせ、わがままのふるまいのみこれあるにつき、父子ともに討ち、長年の鬱積を散じた。貴殿にあってはさっそく、人数を召し連れられ、早々に上洛あれかし、摂津[大阪]がさいわい欠国でありますれば、ここを御知行なされよ」

大名家の記録を疑うものは無いだろう。かくて本能寺の変に背景、暗号は絶対に存在しえない、、、、。

だが、これの否定は簡単である。細川幽斎によって差し出された証拠は、細川幽斎によってのみ簡単に否定されうるのだ。彼は知っていた。信長が殺された本当の理由を、、、、。従ってこの手紙を出す必要があったのである。なぜなら、彼の先祖東陣細川勝元は一四六七年の応仁の大乱で北朝の後土御門天皇を旗印としているのである。[対する山名宗全は南朝小倉宮血筋の岡崎前門主]。

細川幽斎が貴族と深いパイプを持ち、後に歌の秘伝を伝授されたことは知られている。後の関が原のとき、丹後宮津城で西軍の大軍に囲まれての落城の危機を、歌の秘伝が絶えると朝廷に勅命で助けられたのは偶然ではないのだ

では、いかなる証拠品によって、明智光秀の自筆手紙は何の役にも立たなくなるのか? それは後に細川幽斎が京都に上り、本能寺焼け跡で開いた信長哀悼の連歌会においてである。
この有名な連歌会は、あの作家司馬遼太郎氏もその著作などで言及しているから、知らない人はいないだろう。この哀悼会に、当時の京都の有名人、貴人、富人は皆混じっていた。

その中で、細川幽斎は一句を発す。
「墨染めの夕や名残り、袖の露」、
実は、これだけで充分である。

二句は道叱の「魂まつる、野の月の秋風」、、、
「秋風
」これに注目して貰いたい。、、、これは厭き[あき]にかけられて厭き厭きしたとされる言葉であり、まさに哀悼の席の句にふさわしくない嫌悪言葉なのである。幽斎はそれをこの歴史的な会の二句目に許した。
では「魂まつる野の月」とは何なのか?

ここで、頭のいい人なら織田信長の最初の戒名、記録や絵の裏にある「天徳院」を思い出すだろう。天徳年間は災いが相次ぎ、三年で終わった。理由は「天徳は火雷天神の号にして忌むべし」であることは前にも述べた。火雷天神とは菅原道真公ともその眷属ともされる言葉である。菅原道真公の神号は「太政威徳天」でもある。

そして、その怒りを表すお姿は「天満大自在天神」であるという。また牛年に生まれ、牛を大事にし、愛されたことから「牛天神」なる言葉もあるのだ。では、牛は何で象徴されるのか? インドの牛崇拝と暴風雨神ルドラの合体であるヒンズー教の大主神シバは三日月で表されるのである。
三日月は、その形から剣や牛角にたとえられる

勿論、菅原道真公は徳の高い方だから、人にたたられるなど思いもよらなかっただろう。まさに公には迷惑な話である。しかし、その怒りのお姿をこの破壊神シバ神[仏教に入り、大自在天、象徴は仰半月]にかけて見たがる人々もいたのである。そう、にである。
魂を祭る野[田舎の意がある]の月、それに飽き飽きである」、とは何なのか?
勿論、十一面観音[菅原道真公の本地物]を、総見寺に自分の本尊として飾った信長にあてられているのだ。
原点は、魂が神社に祀られ、月で象徴されるあの天の神となったお方である。

では細川幽斎第一句の「袖の露」とは? 意味は、「深き悲しみの涙」であるが、露には別名「月のしずく」があるのである。梅雨が後につゆ、と言われたのは梅と露にかけられたからである。
月のしずく」、これなのである。

これが「袖の露」、深い悲しみになったものよ、、、二句秋風をそのまま残した幽斎のこころ、なのだ。

梅雨、ちなみに梅は天神様の象徴雨には涙、矢、事変の意があることは知っておられるだろう? 
明智光秀の日本一有名な句「ときは今、あめが下知る五月かな」は何の日に、何を詠んだものだったのか。梅雨である。幽斎の句は、そのしずくに掛けたものなのだ。
細川幽斎の出した証拠は、幽斎自身の態度、句によって否定されるのである

今までの説への補足も述べておこう。文字と言葉は昔、神だった
それは神の意思を伝えるものだった。

天徳院。織田信長の「」の字は何処から来たのか? 実は天徳院から考えると簡単である。京都北野天満宮の祭り神は菅原道真公だが、名は何故かそうなってない。由緒書きによれば「道信」なのである。大宰府天満宮では道真公だが。「道信」、これはよく史料を調べれば解る。そして、安土にあった清涼殿そっくりな建物、道真公が怒りの落雷をしたとされるのは「延長」八年である。

■神器が奪われた嘉吉三年の「嘉吉の変」の首謀者の一人は「尊秀王」という。ところで、「秀吉」なる名はどこから来たのかさっぱりわかっていない。

■信長の嫡子信忠、信雄を産んだ側室の名は、吉野とも書かれている。

■岐阜、岐山から国を起こした「周」には[まこと・忠]の字義、意味がある。南朝最後の王は自天王、忠義王。
織田信長の嫡子は信忠。岐阜。

■その自天王の名はどこから来たのか不明である。しかし、日本で普通、天王というときは八坂神社の祀神、牛頭天王を指すことが多い。また聖天には「大聖歓喜大自在天王」の別名がある。

いずれにせよ、本能寺の変には、戦国史最大の暗号、本能寺コードが実在する。それを私は、ここにはっきりと言っておきたい。この前映画「コロンブス」「1492コロンブス」を見たが、コロンブスの偉大さは、迷信や偏見にとらわれずあるべきものを推理、発見し、それを実証したところにあるという。では、なぜ、その繊細を私がここに書かないのかというと、その主な内容は此処に書かれているからである。

■本能寺の変は、本物の聖戦であり、朝廷説であり、明智光秀の軍事同盟者は柴田勝家であるこれ以外の答えはない
織田信長はおそらく下克上の仕上げとして京都を手に入れる最終目的があったであろう。その場合、帝位、朝廷がどうなったかは、信長の考えひとつだったはずだ。勿論、明智側の人々は、はっきり帝位に欲があるらしい、と考えているが。

本能寺の変の大謎とは何だったのか? 
それは事件が起きたのが怨恨か?、野望か?、それとも背後に黒幕がいるのか?、いるなら誰か? 動機は?、連絡方法は?というものだったはずだ。
私が研究を始めたとき、光秀は武田氏残党説と組んでいるというのが有力だった。その他の説は明確に理由が述べられ否定されていた。
朝廷説は? 綸旨が出ていない、光秀が官軍と明言していない、内裏に記録が無い、神官吉田兼見の日記には謀叛と言葉がある、などである。

だが、大軍[賎が岳では二万八千を動員した]を保有する柴田勝家が組んでいる以上、光秀は京都周囲を固めて待てばよかったのだ。誤算は、秀吉の存在だけだった。[いや、前田利家という気になる存在が後から柴田家中からは浮上してくるが、、]、私はここに、あなたが本能寺コードを見つけても、それは傍証にしかならないことも宣言する。ここと結論は全く同じ事を書くことになるだけだろう。少なくとも大筋は必ず似てしまう。

いずれにせよ、戦国史最大の暗号、本能寺・コードは世に実在する。
本当は、日本史二千年最大の暗号、世界史にも希なる本物の暗号としたい、、、が、日本には、まだ幾つか巨大な暗号が存在するらしいので、遠慮しておこう。

■勿論、世に勘違いされないように注意しておくが、それは決して私が捏造したり、偽造したものではない。戦国時代の明智光秀の崇拝者らが、光秀の行いを偉業と信じ作ったものだ

それに先鞭をつけたのは「聖戦、マハーカーラの女」大庭博著という書物である。これに初めて細川家所有の明智光秀の自筆手紙に匹敵する証拠が出た。
また今までこのブログに書いたことは、この本の補強にすぎない。それは、本物の本を読んだ人にはよくおわかりだろう? 
私はここで嘘は全く言っていない。道信と延長、天徳院、十一面観音も、細川幽斎の二句も世に実在する

日本史の地軸を大転換させた事件の真実、
それは、まさに日本史で唯一無二の巨大ダイヤではないのか? 

それを発見し、提唱し、主張するのが、なぜ民間研究家の私であってはいけないのか? いかなる歴史の謎もいつかは解かれる筈だ。それが民間研究家の私であってはいけないという掟でもあるのか? 最大の歴史の謎を解明するのは、東大か有名大学の教授、ノーベル賞受賞者、或いは直木賞、芥川賞作家でなくてはならない訳でもあるというのか? そのようなことが自由・平等を尊重する言論世界なら、あっていいはずもない。

民間研究家の諸氏よ、なぜ、民間研究家の私であってはいけないのか

歴史の真実、歴史では真実のみが価値を持ちうるはずだ。そして戦国史最大の暗号の価値は計り知れないだろう

私はその解読の書物を八十冊所持している。この本、色々、偽物、偽造やトラブルがあったので本物はここしかない。
サイン入りの本物を一冊、三百万円で、ビッグ、キングといわれる人に買ってもらいたい。そのひと、会社のみに出版権、映画化権をオークションで売ることにする。

日本史で唯一無二の本物のみの持つ強みである。私は、この手に持っている物が正真正銘の本物、二千年の真実の品物であることを誇りに思う。全てに嘘はない。この書物「聖戦、マハーカーラの女」大庭博著を否定する物、否定する者が虚偽なのだ。

この説への反論は必ず突き崩して見せよう。本能寺の真実の暗号を知る私にはそれが出来る。
日本歴史の唯一の真実にはいかなる権威、博士、学者、教授、たとえノーベル賞を貰った学者でも反論は出来ないなぜなら、必ず虚偽にはポロ、矛盾点が出るからだ。

もしこの本を否定したければ、その反論史料、証拠品、学者、論文を正式に提示し、実名でここに、こちらこそ本物、真実と断言してみせるように。

さて、連絡先は本人確認が確実になされている次の銀行口座のみである。他では決して、いや絶対に買わないように。本の送り先を添えておくように。

西日本シティ銀行、店番号003 
普通預金口座番号1739448 名前 大庭 博。

西日本シティ銀行。
店番号003 普通預金口座番号 1739448

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本能寺の変、織田信長は南朝だったのか?

■それにしても織田信長は、何故、かくも大和朝廷に挑戦的なのであろうか? 

真実が明らかになるにつけ、出てくるのはまさに朝廷との対立である。岐阜の地名、天下布武の印章で周の武王を気取っていること、また薬師如来や牛頭天王への執着、そしてキリスト教の導入、天主なる巨塔、、、、、 

また、他にも信長には幾つか不思議ながある。一番奇妙なのは、数多く居たという側室の名前、出自が殆ど解らないことだろう。中でも嫡子たる信忠、次男信雄の生母の名前、出自、家系すらよく解らないとはどういうことなのか?故意か、偶然なのか? 不思議な気がする。

だが、ある日、その家の情報らしきものが出た。偽書「武功夜話」とされるものである。尾張の豪族前野家の壁の中から近年偶然に発見されたとする記録であるが、嫡子信忠、信雄、五徳姫の母について初めて書いてあった。

それによれば、名は吉乃[吉野とも]。その家は生駒家といい、文和年間、十四世紀の半ば、あたりから尾張稲木庄郡村に住んだとする。生駒という名は河内国生駒出身だったからという。実は、もともとの名前は全く不明である。

文和年間、一三五二年あたりと言えば、後醍醐天皇の死から、南北朝の混乱、足利一族の尊氏直義の内紛などで河内が混乱の極みにあった時代である。そのとき、生駒家は何かのトラブル、戦乱に巻き込まれ、京都六波羅探題などから逃げ、大和、吉野や河内生駒山中にいたところを前野家に何かの奇縁があり、「生駒」という姓で尾張に住んだ。そこで焼き物の灰薬、油なとの商売をし、急成長し、富豪になったのだという。

その屋敷は巨大で、土居、堀を備え、厳重な門備えと、幾つかの蔵を合わせ備えていたというのだから、よそ者にしては大変な成功である。さらに、何故か、諸国の情報に詳しく通じる者が数人おり、その配下は一千人という土族蜂須賀小六もいたとする。書物の中には、信長の頼みを受け、美濃の城を僅かな手勢を使ってあっという間に攻め落とした食客の話も出てくる。

尤も、この武功夜話は研究家藤本正行氏などによって偽書とされているので、語っても何の益もないかもしれない。

だが、こんな大長編の記録を全くの空想で書けるのか?という素朴な疑惑もある。
そして、中にはかなり気になる記述があるのだ。それは京都六波羅探題に追われて、生駒山に居た、生駒にちなんで名を付けたとする記述である。

京都に追われるとは、大体南朝贔屓であることが多い。[勿論南北朝の争乱を歴史研究家で知らない人はいないだろうから省略するが、後醍醐天皇と足利尊氏の争乱で生まれた、京都と吉野、両朝廷の対立のこと、太平記の世界のことである]

そして生駒山には、実は日本で一番有名な聖天宮があるのだ。この聖天というのは南朝の後醍醐天皇が最も信仰した神なのだ。詳しく言えば、象頭人身の二神が立って抱擁している、二神で一身とされる像である。片方は十一面観音の化身、もう一方は象鬼王であるとされる。災いで人民を困らせていた象王を、十一面観音がその慈悲と愛の力で感化し、善神にしたとするものである。これを後醍醐天皇は国難排除のためによく信仰したとされるのだが、荒神と観音の抱擁像も聖天とされる。

信長の安土城で天主の地は薬師如来の霊地、続いている横の山は観音寺山。そして信長が神宣言をした総見寺の本尊は十一面観音である。

また信長が強く押した「天正」なる元号はとなりの中国にもあるが、その時の王の名は「豫章王」、豫とは「巨象」を示す文字である。

信長の跡継ぎ信忠を生んだのが、その生駒山に名のちなんだ家の女なのは、偶然の一致なのだろうか? 

そればかりではない、次男信雄、三男信孝は養子に行っているが、その北畠家[信雄]、神戸家[信孝]、いずれも南朝で活躍した名家なのだ。ここではそれについて詳しく書けないが、繊細は歴史を見てもらいたい。信長は、まず北伊勢あたりを勢力圏に納めたが、南朝の勢力の強かったところである。

これは偶然なのか? 私の心にはひとつの疑問が生まれたことがある。

それは織田信長が尾張半国から異常な出世をした背景、桶狭間の奇跡の勝利の裏には南朝の遺臣団が何か関係していたのではないかという疑問である。

桶狭間で奇妙な敗北死をした今川義元は北朝の足利家だった。そして美濃制圧後の「岐阜」なる地名、天下布武なる周の武王のごとき印章、、、いずれも暗に、誰か、何らかの勢力に対するメッセージではなかったのだろうか? 武王は殷の悪辣な暴君を倒して、新王朝を開いたのである。 そして上総介なる官名、築土神社[田安明神]の平将門は反体制のシンボルだったのかもしれない。

出自の解らない生駒家が、尾張で驚くほどの財力、多くの武装兵、武将のような、或いは諸国の情報に詳しい数人の食客、平城のような建物を保有していたのは偶然なのだろうか? 

勿論、北朝の天皇は、南朝の天皇家より正式に禅譲と神器を受け、帝位を継いでいる。明治天皇は、南朝の楠正成と一族の忠誠心と湊川会戦での討ち死になどを賞賛し、湊川神社の創建、正一位の贈位をしている。現代において、天照大神の御血筋と帝位に別に問題があるわけでもないのだが、この当時、つまり足利幕府の時代に武士がこの問題をどう考えていたのかはよく解らない。

日本史において南朝は、後醍醐天皇延元元年[一三三六]から元中九年[一三九二]までで終わった。足利尊氏によって分裂した南北朝は合体したが、北朝ー南朝ー北朝ー南朝と交互に帝位につくとする約束はなされず、足利義満によって、応永十九年[一四一二]、北朝後小松天皇から北朝称光天皇に譲位されてしまった。

南朝は経済的にも困窮したが、まだ吉野、十津川、川上などの人民には強く支持されていた。ついに嘉吉三年[一四四三]九月二十三日、楠木二郎正秀が、上御門内裏を襲撃、三種の神器を奪取して、万寿寺親王[南朝 後亀山上皇の皇子小倉親王の子]、天基親王[小倉親王の子]と共に比叡山に篭城する。
だが、北朝の追撃で両親王は自害し、神剣と神鏡は取り戻された。[禁闕の変という]

神璽[勾玉]のみが、楠木、越智氏の軍により、万寿寺親王の息子一ノ宮[自天王]、二ノ宮[忠義王]とともに、奥吉野の山間に逃れた。年号を天靖とし、自天王は北山村、忠義王は神之谷村に行宮を建てたという。以後、十数年、神璽を奉じた。

だが、ついに最後がきた。足利幕府は嘉吉の変で滅亡した赤松家の遺臣団を利用した。赤松家の遺臣団は策を弄し、降伏と協力を申し出て、自天王に取り入った。遺臣団は長禄元年[一四五七]十二月二日、大雪の日に自天王と忠義王の御所を襲った。自天王は斬死にし、神璽は奪われた。忠義王も高原まで逃げたが、病死した。赤松家には神璽を取り返せば、家を再興するとの約束が幕府になされていたのである。[長禄の変]

北山、川上の人民は三之公御所において、毎年二月五日、自天王生前の武具、鎧兜を御神体とし、式典を南朝ゆかりの人々と行っているという。自天王の遺せし句とされるのも存在する。

「逃れ来て、身を奥山の、柴の戸に、月とぞあわせど住む」

不思議な一致は幾つかある。

自天王、、、、信長の牛頭天王への奇妙な執着、、、
信長の長男は幼名奇妙丸であるが、これは満ち隠れするを表すという。そして、忠義王、、、信長の跡継ぎ長男の名は信忠、、、、
三之公御所、、、信長には三介と名があったし、信忠の長子は「三法師」である。そして、北畠信雄、神戸信孝、、、と、南朝の遺臣の家に送られた実子たち、、、

織田信長は、ルイスフロイスの著述によれば、かなり潔癖であり、名誉心に富み、正義において厳格であったと観察されている。そして、人々は彼に対し、絶対君主に[対しているように]服従したとする。このあと、神や仏へ礼拝、卜占、迷信の軽蔑者、霊魂来世はないと見なした、と書かれている。
この言葉に私は異論もあるが、一応そうだと見なす推理面からも考えてみよう。

その彼が、何ゆえに聖天形の霊地に本城、天主、十一面観音を選んだのだろうか? 

だが、信長は何か南朝に関係していたのではないか、利用していたのではないか? その勢力の後押しがあったから桶狭間で勝ち、美濃を手に入れることが出来た。

それ故、その天下への場を岐阜とし、天下布武なる印で自らを武王とする必要があったのではないか? そんな空想、推理も膨らむのである、、、、、人はそれまでの歴史、血があってこそ生まれてくるのだ。

証拠は何もない。しかし、ひとつの可能性は、歴史への推理、可能性を膨らませる。いや、偽書をもとに歴史を語るのは世に恐れ多いことかもしれない。ここでのことは戯言、ただの仮説として受け取ってもらいたい。

しかし織田信長の物語は、もしかすると暴君を討つという正義感に溢れた青年が、天下、覇権、帝位という全てが手に入るという物を、その目の前にしたとき、天魔に魅入られてしまった物語だったのかもしれないと時々思うこともある。

その人生は、ドイツの哲学者ニーチェの著作の言葉そのものだったのかもしれない、、、

深淵を見つめるものは、自らも深淵に取り込まれないように注意しなければならないなぜなら、彼が深淵をじっと見つめていると同じように深淵もまた彼をじっと見つめているからである

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本能寺の変、織田信長は大和朝廷をどうするつもりだったのか?

■織田信長はその先をどうするつもりだったのか? 何を考えていたのか?■

大和朝廷をどうしようと考えていたのか? 幾つか、考えられるキー、可能性はある。

ひとつは、研究家明石散人氏が提唱するように、まず正親町天皇から誠仁親王への譲位、その後、これを手早く退位、或いは暗殺し、信長が猶子とした五宮[誠仁親王の実子]へ譲位させ、信忠の娘と婚姻、信長自身は天皇の外戚、つまり治天の君として君臨する、というもの。だが、この説にはそれならこの少し前の三職推任の征夷大将軍、太政大臣、関白の何れかの地位を受けているのではとの疑問もある。朝廷の権威の利用には、それなりの地位を持っているほうがいいからだ。

二つ目は、美濃を制圧したとき使用した「岐阜」なる地名、天下布武なる印章を手掛かりとするもの。
この岐阜とは岐山、中国の周の武王が殷の暴君を倒して新王朝周を興した地名に起因するものであるから、その歴史にちなみ、攻め滅ぼすというもの。「天下布武」なる印章、「天下に武を布く」とは「武王」を意味すると取れないこともない。尤も美濃を手に入れた程度で、天下を狙うか、新王朝を考えるかと言われれば疑問も出る。景気づけ、縁起もち程度と考えられなくもないが。

三つ目は「安土城」なる地名、これを平将門の首を関東で祀った神社「築土神社」、別名「田安明神」に因んだものと考える線である。平将門は承平天慶の乱のとき、巫女の神託、菅原道真公が八幡大神の仲介をした、或いは八幡大神と菅原道真公が連署をした、なる形で「新皇」と号した。そして一時とはいえ、関東などでこれを認める動きがあった、その故事にちなむものである。

これは安土に天主なる塔があり、下の清涼殿に似た建物と空中階段で繋がれていること、信長の生き神宣言をした総見寺本尊が十一面観音菅原道真公の本地仏であることを考えると可能性がなくもない。武人としてはごく簡単だし、関東武士などの支持もあるかもしれない。
付け加えるなら平将門を菅原道真公の生まれ変わりと見る雷神伝説などがあった。

もっとも権勢争いに利用される菅原道真公や八幡大神にはいい迷惑なのだが。

四番目は、信長の神体とされる盆山なる石、安土城が薬師如来の霊地であることに注目することである。知ってのとおり信長の氏神とされる牛頭天王、小さいころ信長はこの神にちなむお守りを持っていたらしいのだが、これは薬師如来の化形身である。そして、牛頭天王は神道の神話にでるスサノオノミコトと同神とされる。そのスサノオノミコトは出雲の建国神であり、配偶者クシイナダ姫の子、或いは七世の孫とされるのが大国主命[大黒天と同神とされる」である。

神道の国譲りの神話によれば、天照大神の命を受けたタケイカズチノミコト、フツヌシ神との力比べに破れ、大国主命は納得してこの国を天照大神に譲り、天孫降臨に繋がった。

ところで天正九年二月二十八日、信長は内裏側において、大馬揃えを行い、まるで唐の皇帝のような格好をし、武威を見せつけたが、そのとき乗っていた馬の名前は「大黒」であり、梅の花を首の後ろに挿していたという。面白い一致であり、また「唐渡り天神」という菅原道真公の別名を意識しているかのような服装である。[普通は大黒は大黒天の略とされる]
本能寺直前に、信長が行く場所は中国毛利であり、この国譲りの場所だった、いなさの浜があるのだ。何か、神話を逆利用しても不思議ではない雰囲気が、天皇に見せた服装にはある。

中国においては、禅譲という形式がよく行われた。これは皇帝が徳のある人に帝位を譲るというものである。中国の聖人、三皇、五帝が徳あるをもって帝位を次に譲った故事にちなむ。すなわち天災が続くのは王の徳がないため、豊穣が続くは王に徳があるためとする考え方からきたという。

有名なのは中国の漢の献帝が魏の曹丕に譲ったものである。尤も周囲を魏の家臣に囲まれ、殆ど無理やりにであったが、献帝は二人の皇女を車に乗せ、玉璽を捧げて、魏王宮に行かせた。魏はこれを数度、拒否した後、高台を造営し、受禅台と名づけて、吉月吉日、献帝自ら玉璽を捧げて、魏王にこれを禅譲するという大典を、三十万の官、軍兵の見守る中で行ったのである。

また中国の皇帝は必ず封禅なる儀式、自分が皇帝になったという神への報告を聖地泰山で行ったが、スサノオノミコトはその泰山の精である「泰山府君」と合祀されるという不思議な一致がある。

なんにせよ、キリスト教を導入した背景にも、ローマ法王に日本の国王と認められれば世界的認識になると考えていた可能性もあった。
京都大馬揃えのとき、日本の国家元首を天皇と見ていた宣教師ヴァリニャーニは信長へ、内裏への仲介を頼んだ。そのとき、信長は不愉快そうな顔で言った。
「余の居る場所では汝らは他のものの寵愛を得る必要がない。なぜなら、余が国王であり、内裏であるからである

なんにせよ、大和朝廷が残るにせよ、それは信長と織田家に大きな箔をつけるという形でしかなかっただろう。

信長はこれまでの大名とは違うのである、彼は尾張半国から様々な権謀術数と新兵器、新戦法で勝ち残ってきたのであり、その部下は子飼いで、大将らは軍団を預けられ、命令されて動いているのであり、殆ど強烈な恐れられた独裁者だった。

司馬遼太郎は権威者となった徳川家康について次の如く書いている。
それは家康がある大名らに小牧長久手の戦いのころの鎧を指し示し、「貴公、これを覚えておらられるか?」というだけで、大変な恫喝になったというのだ。それは家康が相手の生殺与奪の権を握るほどの力があるからである。別に家康にその気がなくても相手は何か言葉に裏があるのではと疑い、そうなるのだという。

それがこの時代の力、権力というものだろう。

信長の場合は?

その過去はまさに延暦寺焼き討ち、一向一揆虐殺、浅井、朝倉、武田家への戦いといい、家康以上の威圧があったに違いない。事実、安土城で会見したフロイスは家臣皆が信長を恐れ、その顔色を伺い、手を振るだけで慌てて姿が掻き消えたと書いている。

信長の言った何気ない一言でも、その言葉に何か裏があるのか、人々は色々と考えたに違いない。京都、天皇家を邪魔にするような、あるいは何かその対応が気に入らないようなことを言えば、その言葉は相手に対して大変な恫喝、威圧になった可能性は高い。そして家臣たちもその言葉に何か裏があるのか、色々と詮索しただろう。

織田信長は何を考えていたのか? 何も考えていなかったとしても、相手がそのひとつの言葉を大袈裟な意味にとり、それによって明智光秀、柴田勝家が動いたとすれば、それはもう立派な歴史の理由のひとつとなるだろう。

天正十年六月二日、京都本能寺の変において、織田信長は死んだ。

そのとき六月二日、早暁に死ぬことに、かって第六天魔王信長と豪語した過去、中国礼記の「天に二日無し、土に二王なし」の言葉を思い出したか? 早暁に朝廷を感じたか?

それとも何ゆえ自分が此処で死ぬことになったのか理解できなかったか?彼の心底を知ることはない。
だが、、、、、

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本能寺の変、光秀の最大の軍事同盟者、柴田勝家!

■本能寺の変、光秀最大の軍事的同盟者、柴田勝家■
ひとつの物語の中に、もうひとつの物語が生まれ、そして、その中にももうひとつの物語が生まれる。そして、その傍系の物語が主系統と勘違いされることもある。

例えば我々が現在読む物語は、その時代にはただの脇役の物語で、勝者になったから主役なのだと我々が勘違いしているだけなのかもしれないのだ。本能寺の変にも信長、光秀、秀吉以外に本当の主役がいた。「京都秘密文書」、私はそこにある幾つかの不思議な書き込みを長年検討してきたが、ひとつの結論に達している。

よく言われる「明智光秀は、信長を殺した後、どうするつもりだったのか? 先の見通しの全くない謀叛を起こして気が狂ったか?」という疑問、これへの答えである。朝廷と明智光秀には、軍事的同盟者がいた。

その名は織田家重臣「柴田勝家」である。
なぜそうなのか?京都秘密文書にどういう書き込みがあるかはパクリがあるので言えないが、その謀叛の黒幕としての要点を述べよう。

一 滝川一益が長年の工作の末、武田家重臣木曾義昌を裏切らせ、武田滅亡に追い込み、主将武田勝頼の首、大領を得るという大功を立てた。これで織田内部の地位が逆転しかねなくなった。

二 その一益は関東の上野と信濃二郡を与えられ、勝家の長年の敵越後上杉と国境を接した。もし一益が越後を工作、あるいは旧武田家臣団をもって大勝することになると、長年にわたり越中、加賀あたりで大軍を釘付けにしていた勝家は無能の責任を問われるだろう。事実、重臣佐久間信盛は長年にわたる石山本願寺攻めで無能の烙印を押され、追放されている。

三 過去に勝家は、信長の弟信行を奉じて謀叛を起こした罪がある。重臣林通勝は、それも原因で追放されている。

四 勝家は過去、上杉謙信に加賀手取川で大敗し、信長に恥を掻かせた。

五 信長はキリスト教を導入し、仏教徒だった柴田勝家にショックを与えた。

六 勝家の領国である越前や加賀国などは、もともと一向一揆の勢力が強く、それへの信長の鎮圧は過酷であり、多くの恨みを領民に持たれていた。治安に問題があり、大謀叛が起こり、責任を問われて失脚する可能性が充分にあった。

七 勝家の家臣団は旧朝倉、旧浅井の家臣団を含んでおり、京都と係わりが深かった。これは近江浅井氏の祖が藤原氏、朝倉氏の祖が皇族とされてることなどに注目してほしい。朝倉氏の一乗越前谷が小京都とされているなど、交易ルートが長年京都とあった。

八 勝家は五万から四万とされる大軍を動員でき、充分に信長と対抗できる立場にあった。明智軍や朝廷勢力が加われば、新幕府の中心的存在になれるであろうとの自負があった。これには武勇家とされる男の、老年になり、一花咲かせようとの山っ気もあったかもしれない。

九 織田信長の第六天魔王、天魔という悪評や過酷な神社、仏閣への破壊についていけなかった。

■このような視点で見ると幾つか本能寺の変前後に都合のいい点が見つかる。まず勝家が三ヶ月におよび囲んだとされる越中の魚津城を六月三日にすぐ陥落させ、その後、変事が伝わってもパニックになることもなく全兵力を保持して撤退していることである。

さらに最大のライバルである上野国滝川一益の軍は北条軍に攻められ壊滅した。甲斐、信濃でも旧武田家臣の反乱などが起き、甲斐で新領主河尻清隆は殺され、光秀討伐の兵を動かすなどという状態ではなくなった。

また四国渡軍に三男信孝といた重臣丹羽長秀の軍二万五千ばかりもパニックを起こして四散、指揮能力のなさを暴露した。美濃でも安藤氏の乱が起こっている。つまり柴田勝家の最大のライバルらは失脚同様になったといっていい。その甲斐、信濃、北条への工作も越中あたりからなら充分可能なのである。

事実、この後の統治をどうするか?を決めた清須会議においては柴田と羽柴の二大勢力争いになったが、不思議なことがあった。柴田勝家は秀吉の近江長浜城をよこせと主張し、譲らなかったが、そこは浅井氏の小谷城の近くであり、後に浅井長政の妻だったお市の方と結婚していることである。

近江勢力、、、安土城が殆ど光秀の前に無血開城し、財宝、兵糧をそのまま渡していることに注目してもらいたい。
守将蒲生氏も藤原氏系統であると言われている。

お市の方は知ってのとおり、夫浅井長政を殺され、ドクロの杯とされ、長男[お市の方の子ではないとの説もあるが]は串刺しで殺された。娘三人も長政の実子であるため、信長にどういう目に遭わされるかはわからなかった。お市の方が信長に好意を持っていたかは解らない。腹違い、つまり側室の腹の妹である。むしろ嫁ぎ先の浅井長政の子供らを奉じる人間たちの方がはるかに頼りになる存在だったかも知れないのだ。

「京都」-「近江・浅井」-「越前・朝倉」、
このように考えると、まさに、長年にわたり培われた京都へ、京都からの交易、交流の太い道であったことが解かる。柴田勝家を口説いたのは、そのルートなのだ。

そして、また我々は、そういう視点で見ると奇妙な動きをしたひとりの人間が居たことに気づくだろう。「前田利家」、後のしずが岳の戦いで勝手に退却し、柴田勝家の大敗北の原因を作った人物、そして秀吉が親しげにその居城の前に数騎で乗り付け、開城させ、味方にした人物、後に加賀に百万石の大領を与えられ、秀吉に最も信頼された人物、、、。
柴田勝家の側に彼は居た、、、前田利家も信長からの扱いを憎んでいたという話がある。だが、、、、もし大きな情報を掴んでいたら、、、、この線は、さすがに私もよく解らない。

いずれにせよ、日向守明智光秀が朝廷を心配して動いたのは間違いない。それは、東宮誠仁親王とよく連絡を取っているのを見ても解る。だが、朝廷は光秀の兵力だけでは、強大な織田軍の報復に耐えられないのを承知していた。それ故に、もう一人の立場を心配している有力重臣を抱きこんだのである。五万の軍を動員できるとされる北方軍司令官柴田勝家、彼が光秀に協力すれば、変後の事態はかなり安心である。
さらに勝家にしても、朝廷の命令、あるいは何らかの地位を受ければ、立場は安全と思えたことだろう。その軍は殆ど完全なまま、越前に帰還した。

ただ誤算は、羽柴秀吉、この男の存在だけだったろう。それも最大のライバルが、滝川一益と考えていればこその間違いだった。しかし、柴田勝家は軍事面では自分が一番上と自負していたことだろう。それは軍事での赫々たる経歴を見れば、頷けなくもない。だが、事態は予想外の敗北を招いた。何が予想外だったのか? それはまた別の部分で述べたい。
ここでの結論は「朝廷と明智光秀の軍事的同盟者は柴田勝家」であったということである。これにより、幾つかの本能寺への疑問のいくつかは氷解することだろう。

根拠のひとつを述べよう。
天正十一年[一五八三]三月の賤ガ嶽の戦いで勝家は秀吉に負け、越前北ノ庄で四月二十四日に天守閣を炎上させ、お市の方と自刃する。

辞世は
「さらぬだに、打ちぬる程も、夏の夜の、夢路をさそう、ほととぎすかな」お市の方。

「夏の夜の、夢路はかなき跡の名を、雲井にあげよ、山ほととぎす」勝家である。

この二つの句には「ほととぎす」が出てくるが、この鳥の名は辞書を見てもらいたい。「あの世からの使い」「魂迎え鳥」「しでの田長」などの別名がある。
「死出の田長」、誰かを思い出す名前である。

「雲井・雲居」も辞書を引いてもらいたい。「内裏・宮中」の意味がある。

「山」であるが、牛頭天王と同神とされる「スサノオノミコト」は「泰山府君」なる神と合祀される。
「山からの死者の使い」「かっこう鳥と同じ、巣の乗っ取り屋」、それがほととぎすである。

「打ちぬる」という使い方は珍しく、「打ち」は強調を意味するが、ほとんど「ぬる」濡れるの強調には不自然である。むしろ「打ち」は「討ち」に通じることが多い。

本能寺の変は「夏の夜」に起こった。ふたりが強調している「夢路」とは何なのだろうか? いずれにせよ、旧暦の四月に「夏の夜」、「夢路」、「ほととぎす」、「雲井」のことを強調して二人はともに死ぬ。そこに夢路跡の名をあげよとの勝家の主張はどういう意味だったのだろうか?

そして、我々は次の不自然な歴史の展開を知ることになる。豊臣秀吉の天下と政権は、お市の方の娘茶々とその子秀頼が全てを取った。
その側にいたのは、石田三成、大野治長を中心とする近江勢力である。

本能寺の変、そこでの裏の本当の主役は、柴田勝家とお市の方だった。
ひとつの視点は、本能寺の変について長年抱かれた幾つかの大疑問を簡単に解消させるのではないだろうか?

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偽書・奇書「本能寺の変、京都秘密文書」

■何が真相解明のキーになるのか?■
「偽書・奇書 京都秘密文書」

巨大な歴史の事件の裏には、常に奇怪なる文書が幾つか存在する。俗に言う奇書・偽書の分類である。何ゆえに出たのか? 何が目的なのか? 作者や意図するものすらわからず、それらの偽書・奇書なるものは存在し、時々、ふっと我々歴史マニアの前に現れては去っていく。

勿論、それらの多くは、ひと読みすれば何か金儲けか、浅薄な祖先の武功自慢、或いは家柄に箔をつけるために偽造されたものではないかと見分けがつくものが多い。紙質、時代考証、書かれている言葉、地名の使い方、信頼できる史料と読み比べると存在する事件の日時、関係者名の間違い。

しかしながら、学術研究においては価値を付けられず、笑止千万とされる数百の偽書・奇書の中には、時々ではあるが、我々を注視させる奇妙な部分、書き込みのあるものがある。

本能寺の変における偽書・奇書「京都秘密文書」もその類である。何ゆえ奇書「京都秘密文書」とするのか? それは正式な題名、作者を書くとパクられる可能性があるからである。だから、ここではそういう事にしておきたい。どうせ持ち主は「偽書」と宣言してるし、そこに書かれていることに学術的価値を全く見出していない。

私もその明らかに紙質や言葉使いの違う、無愛想な書き方の薄っぺらな書物、巻物でもない、、、を本物と断言する勇気もない。ちょっと書かれてあることに裏を取ろうとしたのだが、信頼性はそこに見出せなかった。特に信長の経歴、性格、明智家の家族などにおいてはかなり違っていた。地名などにおいては、作家井沢元彦氏が「鎌倉時代に東京タワーという地名を使った資料があれば、その価値は、、、」と言っているのと同じである。

だが、「本能寺の変において」は、、、、。いささか気になって仕様がない部分がある。しかも、ある程度正確ではないかとさえ思える部分もあるのだ。
だから、私は魅せられる。故に、ここにその不思議な話を、ちょっと書いてみたい。

例えば、信長の氏神である牛頭天王は薬師如来の化形身であるという神学。つまり牛頭天王は疫病を司る神であり、そのあらぶる魂を鎮撫するために祇園祭は起こり、薬はそれに通じるという一説は説得力がある。そして牛頭天王は朝廷、内裏に敬われつつも最も恐れられた神なのだという。

ところで、織田信長が戦略、政略的にももっと良い地は幾つもあるのに、安土なる地を選んで巨城を構築したのは、そこが薬師如来関係の霊地、霊山とされ、もともと薬師平なる地名、仏像、薬師如来を本尊とする桑実寺などがあったからだとする。

また「寅薬師」、薬師如来は寅の日[十二支の]が縁日という言葉が存在するが、信長が焼き討ちをし、三千人を殺した比叡山延暦寺は京都鬼門[丑寅方位]封じの寺であり、それに係わった明智光秀の坂本城はその側に存在する。
安土城も京都から見ると丑寅、特に寅方位ではないかとの推測も出来る。そこには「天主」なる巨塔を建てているが、牛頭天王[スサノオノミコトと同神ともされる]の別名は「武塔天神」である。
[また牛頭天王は鬼門の主である]
さらに信長の家紋のひとつ五つ木瓜紋は、津島牛頭天王社の神紋ではないかとの研究結果、、、。

奇妙な一致は、まだある。
先にも書いたが、天正十年五月二十八日、出陣前の慌しい中、明智光秀は京都近郊愛宕山神社で連歌会を開くが、この日に降る雨は鎌倉時代の曾我兄弟の敵討の故事にちなみ「虎が雨、虎が涙」という特別な名がある。[曾我兄弟の一人の死を、遊女虎御前が嘆き悲しんだということから]
明智光秀は「時は今、あめが下知る五月かな」と初句に詠んでいるが、この、あめがしたなる言葉は、天下と雨が下の掛詞である。
その句を、彼はわざわざ神前に奉納したのだ。

さて「六月一日」明智光秀の丹波亀山城出陣は「天王降ろし」の日、牛頭天王を迎える行事の日。
さらに「六月二日の変」は、自らを「第六天の魔王信長」との豪語の言葉、「二日の変」は「天に二日なし、土に二王なし」の中国礼記の言葉に掛けられたものと考えられなくもない。

「六月十三日」、山崎天王山の戦いも京都祇園祭りの日[昔は六月七日から十四日]、

「六月十五日」、中部地方などの「天王祭」の日に、信長の最高傑作安土城天主閣は謎の炎上により消失している。この一致は偶然といえるだろうか?

また別の一致もある、光秀には辞世の漢詩が残っている。

逆順無二門、
大道徹心源、
五十五年夢、
覚来帰一元

というものだが、歴史を見れば本能寺の変時の明智軍先鋒隊長安田国継は、後に何故か「天野源右衛門」と改名している。右衛門府、左衛門府、ともに内裏の門を守る役職である。ところで「御門、みかど・帝のこと」との言葉があるのだ。先鋒隊長といえば、もっとも重要な役目であり、光秀の最も信頼できる部下だったはずである。
その改名と辞世漢詩の一行目の「無二門」、二行目の「源」なる言葉はぴったりする。さらに四行目の一元なる言葉には「元号」の意味も含むという。「天正」、、、夢が覚めて、これに帰るとはいかなる意味なのか?

「牛頭天王」なる言葉を考えると、もうひとつ気になることもある。
「牛頭・ごず」なる奇妙な読みだが、これは「五月五日」の「牛神祭りの日」に掛けられているとの話があるのだ。今でこそ祝日だが、昔「五」は大凶数であり、「五月五日」に生まれた子供は、親を殺す者として殺されたなどの話が古の中国の話などには出てくる。日本でもその手の思想はあった。「五・ご」と「牛・ご」。
ところで光秀の過去は不明で、年齢はよく解らないことが知られている。辞世漢詩を見てもらいたい。横に読むと、つまり一番上の字だけとると

「逆大五覚」、つぎが

「順道十来」
「無徹五帰」
「二心年一」
「門源夢元」、、、

逆と大きく五を覚えた、、、順の道、天正十年、、、無に徹し五を帰す、、、、御門と源氏の夢を元[はじめ]る。

「天野源右衛門」と「牛神祭り・五月五日」を考え合わせると、そんな不思議な一致、読み方があると思えないだろうか? 

偽書「京都秘密文書」には、そういう不思議なこと、ヒントが幾つか書いてある書物である。
どこから、何処まで的確に書いてあるか、どこかからが私の推測、推理かは言えない。パクリがあるから。

しかし、偽書・奇書にしても不思議な書物だ。何か、元になった原本のようなものがあるのかも知れないが、私には見当がつかない。しかし、なかなかの豊富な要素があるように思える。
だから、もう少し、「閑話」として、書かれてある不思議なことを追求してみよう。

次は、ちょっと毛色の変わった、あの人間のことだ。

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検証 本能寺の変、逆アリバイ説!

■織田信長最大の真実■
天正十年六月十五日、この日、安土城天主閣は謎の出火により、大炎上をして消失する。この六月十五日は「天王祭」、中部地方などでの牛頭天王の大祭日。

ところで宣教師フロイスは、次男の織田信雄が火を点けたとも書いている。「天王祭の日」に、信長の象徴とも言うべき安土城天主を焼く。すると、そこには、また別の意味が出るのかもしれない。

■明智光秀アリバイ説■
かって、信長殺しは明智光秀にあらずとし、光秀のアリバイを主張した人がいた。作家の八切止夫氏である。説によれば悪天候、豪雨により光秀は連歌会を開いた愛宕山から下山できず、その間に家臣の斉藤利三が信長の妻、濃姫の命令により勝手に軍を動かし、信長を討ったとする。その理由は、悪妻排除に対抗して、というものである。勿論研究家には酷評されているが、注目するべき逆の点に私は気づいた。

それは、もし本能寺に黒幕などがいたと考えた場合、「彼」は現場か、その近くにいたがるのではと思える点である。もし貴方が自分の全財産、一生どころか、命を賭けた相場をどうしても張らなければならなくなった、としたらどうだろう? 信頼できるプロに運用を任せたとしても、遠くはなれた場所でのんびりできるだろうか? 

むしろ一刻も早く結果を知りたいとか、プロがうまく行かなければ、何とか自分で修正できるところは修正したいと考え、側に居たがるのでは? 少なくとも、勝負場から遠く離れた場所にいる気にはならないだろうし、どうしても遠くに居なくてはならない立場になったとしても、一刻も早く結果を知るために、連絡役を何人も用意しておくのではないだろうか? 
そして、できれば相場、勝負を自分である程度、有利にコントロールしたいと願うのではないだろうか? その場合、自分の血縁、親類の多い場所を選ぶのが絶対に有利である。相手が大物すぎ、勝負が確実に命に係わる場合、なりふりは構っていられないだろう? 

そういう目で、幾つかの本能寺の黒幕といわれる人々の様子、反応を見てみよう。まず信長に追放された前将軍「足利義昭」であるが、この人の反応は鈍すぎる。彼が組んでいたら、少なくとも光秀が沓掛で軍を京都に向けた時点で、何らかの連絡網が動いて謀叛の第一情報をいち早く毛利に届けていなければならないはずだが、それがない。光秀も謀叛の誘いを受けていたとしても、あまり連絡の取れない相手を信頼し、そのために動くとも思えないのだが。

次に、よく言われる「徳川家康」、信長が自分を警戒し、何時か外様として滅ぼされることが分かったから、、、となるが、そうなら京都に居て、いち早く信長の死を確認した方が有利なのでは? また、こっそり光秀に自国三河に帰る為の馬や護衛など借りられるのでは?とも思える。光秀と組んでいた、など、兵を合わせてに戦わない限りは、よく外部には解らないだろう。しかし、実際は堺見物しており、よく信長の死も確認しないまま、伊賀越えで逃げているのだから、殆ど無関係となる。

他にも、キリシタンの陰謀、堺商人、高野山、本願寺勢力、キリスト宣教師など色々と黒幕は言われるが、頻繁に連絡を取っているか、現場近くで、すぐに新情報を入手できるような充分な手配り、人配置をしていたか? できたか?となると疑問は多い。
普段見慣れない目つきの悪い連中、どこの者かよくわからない人々が、本能寺や、妙覚寺付近をうろついていたら、盗賊の多かった時代、妙な疑いを掛けられ、捕縛される可能性すらある。

しかし、京都で疑われずに情報を収集できる人々もいる。普段見慣れた人々、家を持つ住人である。朝廷、貴族の人々を前提に推理してみると、どうなるのか? 何か、この心理点にピッタリくるような気がしてならないのだ。
知ってのとおり、京都は数百年も都の続いた場所である。そこでどのように人脈、情報網が繋がっているかはよく解らない。しかも狭い地域なので、当然、色々な商売や友人、縁戚関係はあると見るべきだろう。

また寺、神社が多く、法事や葬式、行事の集まり、茶会、連歌会、本の講義などの集まりも多い、必然的に知識階級の顔見知り、友人も多くなる。縁戚関係なら、信長の近来の行いについて多少非難をしても、安心できるだろう。
さらに、京言葉、貴族独特の言葉もあるという。他の地方の武士が側で聞いていてもよく解らない言い回しもある。
古書、歴史書の講義などもある。例えば光秀は細川藤孝、里村紹巴と丹後に遊び、源氏物語の本読みを楽しんだというのだが、信長をそれらの登場人物の誰か、平家物語の悪人の誰かに例え、悪口、非難を言ってても、それらにうとい他人にはよく解らないことだろう。

そのように、さりげなく読書会、連歌会、茶会で陰謀をめぐらす事は可能ではないだろうか? 平清盛について書いていた文書、手紙が実は信長打倒の事。それらの文書は証拠に見えるだろうか? なるだろうか? 
光秀はそうやって頻繁に読書会などで連絡を取る。また重臣たちを説得するが、彼らは半信半疑だろう。だが、ある日、彼らも知る前関白の大物が亀山か坂本城に遊び、本読みにやってきて用意と勝利を確約する。勿論、それはあくまで「平家物語の中の源氏の勝利」である。

だが、京都近郊沓掛で重臣たちは、そのときに来た大物の従者の顔を、道案内として見ることになる。

重臣たちは、光秀の言葉どうりに信長、信忠が京都で討て、安土城が無血開城したこと、大阪の四国渡海軍が四散し戦力消失したことで信頼する。

だが、ここでひとつの誤算が生じていた。信長の死体が本能寺で発見できず、その生死が不明になったことである。その苛烈な性格、報復の仕方は知られている。さらに織田家には次男信雄、三男信孝、柴田、滝川などの遺臣団の大軍も健在である。その為、光秀は朝廷からの勅命、令旨を公表しなかった。この前の南北朝の長い争乱は知られているし、光秀としては事態を複雑化することを好まなかった。

変当時、織田の重臣は彼方此方に散らばっているので、信長の死が伝われば敵と交戦したり、私欲から同盟したり、独立したりし、分裂するのではないだろうかと光秀は見ていた。

そして、それらの変の連絡、秘密文書、手紙は平清盛討伐の話として、読まれても気づかれずに残っている、、、。

人はその勝負の現場に、近くにいたがるという心理的に見る推測、、、

だが、京都、ひとつの戦場、地縁、人間の心理を考えると、なんとなく可能性は高いとも思える。光秀はその細川家への手紙によれば五十日から百日で近国の情勢は安定するだろう、その後は引退すると書いている。これは安土城、坂本城、亀山城なる堅城を持ち、京を保持し、一万五千から二万ほどの軍を集めえると考えている大名には、ちょっと欲が小さいように思える。

しかし、逆に考えれば、彼は近畿圏では確実に勝てると考えていた節があり、それは、やはりこの辺りなら充分な地縁と情報が得られるので、殆ど負けがない、と考えていたからではないかとも思えるのだ。

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ひとつの痕跡、本能寺には何が残っていたのか?

■織田信長最大の真実■
天正十年六月二日京都本能寺の変、「第六の月」+「二日の変」。
織田信長が武田信玄に宛て、第六天魔王信長と豪語する手紙を送った事はフロイスの記録などにより知られている。第六天魔王[大自在天]とはインドのヒンズー教の主神のひとりシバ神のことで、仏教破壊の神、その象徴は仰半月[シバ神は三日月がシンボルマーク]である。

「二日の変」、「天に二日無し、土に二王無し」中国「礼記」。
信長の主城は「安土」、この日に信長が死んだのは偶然か、そうではないのか?

■「痕跡、凶器、、、何が現場に残ったのか?」■ 
名探偵シャーロック・ホームス、金田一耕助、エルキュール・ポアロ、彼らが殺人、事件現場に来た時、まず屈んで虫眼鏡など取り出し、彼方此方と這い回る。そして皆があきれ返る中、どうでもいいような物を取り上げ、意味不明なことを言い出す。あの人、大丈夫ですか?と言われながら、終盤に来たとき、それらのどうでもいいような小さな品物、出来事が突然重要な意味を持ち出す。やがて被害者だった筈の美女の大復讐劇の真相が、、、。などと貴方も中学か高校時代に興奮しきった過去をお持ちだろう? 

しかし大半それは用意された手掛かりであり、実際の大事件に残される事は殆どない。本能寺の変の現場に何か重要な真相への痕跡はあるのか?と問われると? 「別にない」、と従来はされてきた。

いや、研究者たちに止めを刺してきた凶器はある。例の丹後宮津に居た細川藤孝[幽斎]への援軍を求める六月九日日付の明智光秀自筆の手紙である。本物と鑑定される署名と花押がある。この光秀絶筆の内容は孤立した身が悲鳴を上げているようだと評価され、思いつきでやった謀叛を後悔しきっているようだとされている。内容は、

一 細川親子の出家を怒るも仕方のないこととし、大身、身分の高い侍でも出して、協力してくれと頼む。
二 褒賞の国のことに触れ、摂津をやる。但馬、若狭がお望みならそうするとし、必ず貴方の希望どうりにする。

三 私が予想外のこと[原文では、我ら不慮の儀。つまり本能寺の変のことを指すとされる]を決意したのは忠興[幽斎の子]などをを取り立てる為である。他にはない。五十日か百日以内には近国などを制圧するであろうから、その後は十五郎[光秀の長男]、与一郎などに引き渡して引退するつもりである、仔細は二人の使者が申し述べる。

まさに文句のつけようのない思いつき襲撃の手紙。いったい何をもって本能寺の変にケチをつけることが出来るのか?せいぜい「ときは今、あめが下知る五月かな」の愛宕連歌会の初句をもじって野望説が怨恨かを論議するのがせいぜい。誰かが黒幕、背後にいた説など、論外。所詮、まともな説にあらず、、、、、、。絶対の研究者殺しの凶器。

しかし、本当になかったのか? いや痕跡はあった。奇妙なる矛盾、疑惑に満ち、そして仔細なることばかりではあったが、、、、、。

一 明智光秀は京都近郊老の坂で軍を小休止させ、何かを待っていた。そして、軍を突如京都に向けた。だが何があったのか? 誰か来たのか?は、全く無視された。

二 あるテレビ番組で研究された多量の兵の鎧の音は、なぜ京都に泊まっていた信忠の馬廻り、警備兵に気づかれなかったのか? 

三 京都粟田口などで神官吉田兼見、勅使勧修寺晴豊が出迎えようとしていた。それを信長が何故か知っていたこと。彼らは無用と言い渡され帰った。

四 六月一日、内裏を空にするほどの高位の貴族が本能寺を訪れ、深夜まで何かを長時間話し合っていること。

五 吉田兼見、勧修寺晴豊、御湯殿上日記などが書き直されたり、四散されている不思議さ。

六 前関白近衛前久の屋敷が織田信忠が篭った二条城攻撃にすぐ利用され、前久が光秀敗北後逃げ隠れしていること。

七 戦場の真ん中の二条城から出てくる誠仁親王の輿を愛宕山連歌会に参加していた連歌師里村紹巴が用意していること。紹巴は近衛前久の子飼いであった。また誠仁親王と光秀の間を何度も往復した吉田兼見も近衛前久の家礼である。

八 光秀の娘は細川忠興の妻であるが、忠興の妹は吉田兼見に嫁いでいる。そういう細川家から、光秀自筆の手紙は出た。

九 一番の疑惑は、謀叛を起こすほどの邪悪、利己主義なる筈の明智軍が京都で全く略奪をせず、皇族貴族を人質にとっての無理な官位、勅命の要求などもしていないことだろう。負ければ全て失うという状況の中で、この余裕は何なのか? 

だが疑惑、仔細な痕跡は絶対の証拠品の前では常に取るに足らぬ下らぬものとされる。細川家の光秀自筆、花押の手紙は、犯罪者の捺印のある自白調書、自殺者の署名入りの遺書にも匹敵するではないか! これは覆しようがない? 
いや本当にそうだろうか? ひとつの疑惑を述べよう。明智光秀は本当に細川家の兵力をあてにしていたろうか? 当時の細川家は丹後十二万三千五百石、一万石で二百人動員としても戦況を左右するほどの大名とも思えない。味方してくれればあり難いが、味方しなくてもそれほどの、、、と思っていたとしたら? 内容には真実を書いたろうか? そう思ってみると真実よりも、情に訴えている文のようにも思える。
では、明智光秀が、戦況の行方で、本当に当てにしていたような大名は他に居るだろうか? 手紙どころか、たとえ軍を動かしてでも味方させなければならないと思っていたような、細川家よりもはるかに重要人物。そして本能寺の変においても、何か重要な意味を持っていたと思えるような人物。

一人、、、、確実にいる。

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状況! 京都、本能寺での変は必然か? 偶然の産物か?

■織田信長最大の真実■
六月一日、この日は「天王降ろし」、祇園祭などで牛頭天王を迎える行事の日である。明智光秀は丹波亀山城からこの日の夕刻軍勢を発した。牛頭天王は鬼門[丑寅]のヌシとされ、薬師如来の化形身のひとつ。また薬師如来は寅、とらの日が縁日。光秀が出撃前、虎が雨、虎が涙の日に神に祈願した理由は何だったのか?

■「京都、本能寺の変は必然か? 偶然か?」■
ひとつの事件が起こった時、必然か偶然の産物か、それがいつも問題となる。例えば太平洋戦争で日本が四隻の空母を失い、完敗したミッドウェー海戦、ブーゲンビル上空での山本五十六大将の米戦闘機に待ち伏せされての戦死、いずれも最初はただの偶然の産物とされた。前者は偶然に米空母が付近におり、爆撃機と雷撃機に同時に襲撃されたために日本戦闘機は防ぎきれなかったのであり、後者は偶然にパトロール中の優勢な敵に襲撃されたための悲劇である。
だが、戦後、この二つの事件は暗号が解読されていたために計画的に襲われたのであり、いずれも慎重な作戦の勝利であったことが判明した。偶然か、必然か、その見分けはまさにそれ以後の歴史の見方、分析を左右するといって良い。

では本能寺の変は? 研究家藤本正行氏は偶然の産物とする。天正十年四月、木曾義昌の裏切りに乗じた信長の総攻撃により甲斐武田家が滅亡した。甲斐、信濃、駿河、上野などが織田領地になったことにより、有力武将河尻秀隆、森長可、滝川一益などが統治の任に当てられた。さらに毛利側の備中高松城を包囲していた羽柴秀吉、越後上杉と交戦していた柴田勝家、前田利家、佐々成政、また丹羽長秀と織田信孝は四国討伐軍二万五千と大阪、長男信忠は安土、次男信雄は伊勢松ヶ島、と織田の武将は分散しており、近畿は空白地帯だった。すぐに大軍を動かせるのは当時、家康の接待をしていた明智光秀とその配下の大名だけだった。

そして、この大軍の動員を五月十七日あたりの羽柴秀吉の援軍要請を受け、命令したのは信長である。その命令なくば明智光秀は亀山に軍を動員することもなかったし、信長を京都で襲うタイミングを得ることもなかった。つまり、偶然の重なりがチャンスを産んだ。その傍証とし、彼は陰謀の防諜の難しさを挙げる。陰謀に人が加担すればするほど、その秘密保持は難しくなる。陰謀の当事者、付き人、いろいろな目撃など気にする要素は多い。また人の口に戸は立てられないし、恩賞目当ての密告者の心配は後を絶たないというのだ。それ故、明智光秀の謀叛は、偶然の重なりがチャンスが産んだ。

この論理にはそれなりに納得できることがある。天下人信長に命に係わるような陰謀を密告すれば、その恩賞は莫大に違いない。それがなかったのだから、直前に思いついたと考えられなくもない。だが、軍事的に空白地帯かと言えば、安土には五千、京都にも二千、大阪には二万五千の完全装備の軍がいた。さらに光秀の配下大名が味方していない事など、その先をどうするつまりだったのだ?との疑惑もある。

では、変を必然とする見方はどうか? 
実は必然とすれば、まさにそうにも見れる時なのだ。武田家が滅んだ時点で織田家を滅ぼせるような勢力は見当たらない。この後、毛利が滅ぶか、降参するのは装備、兵力からも確実である。越後の上杉は柴田軍に押されているし、関東の北条も友好的態度である。どちらも京都に軍を進めるような余裕はない。四国の長曾我部も劣勢である。何よりも信長が毛利を討ち果たし、この際九州までも支配すると豪語した「信長公記」。

もし毛利が滅ぶか、織田に降伏し分割されたと仮定する。そうなると、仮に京都で謀叛を起こしても、援軍は九州、四国から呼ぶことになるが、移動に海軍、大量の船が必要である。しかし、瀬戸内海の水軍は毛利や織田が支配しているし、海を挟んでの充分な補給は長期、悪天候など考えると難しい。また九州はキリスト教が盛んであり、キリシタン布教に寛大な信長に、友好を示すキリシタン大名大友宗麟などもいる。正直、その辺りからの大援軍など京都まではとても期待できない。それどころか、毛利滅亡を聞き、なし崩し的に織田傘下に入る可能性もある。

しかし毛利が健在な時点なら? 中国地方の羽柴軍などは即刻交戦になり、身動きできなくなるとの推測もできる。毛利勢力がある、なしの時点の「変」では、織田家、周囲に与える影響がまるで違うのである。つまり、京、近畿でのクーデターが援軍、或いは何らかの補助を受けて成功する最終線ではなかったかと疑える節もある。

では、真実はどうだったのか? 
「真実」は、まさに最終ラインだったことを示している。なぜなら、これ以後は信長が京都、皇族、貴族を人質に取ったと同じ事になるからである。光秀の後に京都を任されるのは三男織田信孝とその軍だった。そうなると、織田家へのクーデターなどは殆ど不可能に近い。そうである。光秀の個人的野望、怨恨で京都で大軍は動かせない。
もともと光秀が、勝ち馬と決まった天下人信長を裏切る理由はひとつもない。信長についていれば一生は安泰である。とやかく言われる怨恨説の逸話、野心家の逸話も殆ど出鱈目、根拠無しが証明されている。光秀は同盟者家康の接待を任されるほどの立場にあったし、軍功、治安の才能も高く評価されていた。多少信長の機嫌を損ねても、人質、養子に信長の息子をとる、娘を側室に出すなど家安泰の手はいくらもある。個人的に保身の道はいくらもあるのだ。

では何故、老齢にもなって、変を起こしたのか? 京都だから、、、、其処でなくてはならなかった。それ以外には考えられない。
その根拠がある。 

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