本能寺の変、安土、天主閣とは何だつたのか?

■安土城天主とは何か?■

何故、織田信長は近江安土なる地に巨大で壮麗な塔を建設したのか? よく言われる謎である。信長の意志がその建築の全てに入っているとすれば、これほど精神構造、思想を表すものはないであろう。天道思想、あるいは何かの宗教的意味、例えば信長がこれから造ろうとしていた新宗教のシンボルとなるものだった、不死を求めた信長の霊的装置、など色々と言われているが、私は織田信長が戦国を統一した如く、あらゆる宗教をここに統一、もしくは習合させ、自分の政治に利しようとしたものではないかとも推理している。

安土城天主閣は、ある神のシンボルだったと見るのが正解ではないかと思われるのだ。まず、そこがもともと薬師如来関係の霊地であり、側の桑実寺の本尊もそうであることは前に述べた。信長の氏神牛頭天王は薬師如来の化形身であるが、山はその形から牛に良く例えられる。牛頭天王は須佐之男尊と同神とする見方があるが、別名は「武塔天神」である。

そこに蛇石などの多くの巨岩を運び込んでいるが、巨石に霊的なものが潜むと信じられていることは知られている。特に須佐之男尊など、出雲の神は石神であるとされる。確かに、牛の角などは石に擬せられることも多いだろう。そして須佐之男尊のかかわる神器、アメノムラクモノツルギ、草薙の剣伝説も、剣が鉱石から作られることを思うと頷けるものがある。

天主内部は地下一階、上六階、これが当時の限界なのか、それとも意図した階層なのかは解らないが、五階が法隆寺夢殿のごとく正八角形にして朱塗り、絵は天竺の仏教的素材、六階が正方形の平面、外部金箔、絵は中国の儒教的というのは何かあるのではと思われる。
となると他の階層にも描かれた絵、一階の墨梅、二階の花鳥、瓢箪から馬、麝香鹿、西王母、三階の岩・竹・松、竜虎、桐に鳳凰、中国の聖人許由、巣父、鷹、とまりの木も何か宗教的な意図があるようにも思えるのだ。

そして、近年の研究で言われ出した、西洋の教会の如く地下から三階まであったとされる吹き抜け、その底に置かれていたという仏舎利を納めた宝塔、能舞台、、。能と言えば、非常に霊的、宗教的な感じのする芸術である。

これらを「信長公記」の著者太田牛一のよく使う「天道照覧」「時刻到来」にかけ、天道思想の表れではないかという人がいる。だが、それだけなのか? むしろ天下統一をモットーにした信長はもっと単純にして、合理的な物を作ろうとしたのではないのか?

実は、その思想の片鱗とも思える逸話がある。信長は一五八一年、天正九年七月十五日、盂蘭盆会の夜、安土天主閣と総見寺にのみ様々な提灯を吊るさせた。その光の塔から出た信長が城から一キロほどの安土セミナリヨ、キリスト教教会堂までずらりと続く松明の光の中を歩き、宣教師ヴァリニャーニらの出迎えを受けたという行事である。

いったい、これは何なのか?どう見ても、西洋の神と日本の神を統合しようとしていたとしか思えない。相手はイエス・キリストであろう、
それは天主教[キリスト教]と朝鮮などで言われていた言葉を思うと納得できる。だが、日本の誰と? と考えると、どうもあの高徳、学問で知られる天神様、菅原道真公ではないかと思われる。

この二人、似ていると言えば言えるのである。まず、どちらも非業の最期を権力によって遂げた殉教者のような存在である。
どちらも死後蘇った、とされる。そして、人から神になった。
キリストの生誕日は、十二月二十五日、クリスマスであるが、菅原道真公の生誕は六月二十五日、死んだ日は二月二十五日である。そのことから二十五日はどの月も天神祭とされる故に、十二月二十五日と重なるのである。

日本において、本地垂迹説というものがある。日本の神は仏教の神が形を変えて現れたというものである。その視点で見ると、信長が自らを神であると豪語した総見寺の本尊は十一面観音なのである。これは菅原道真公の本地物、本体とされる神なのだ。

さらに、安土天主の下には内裏の清涼殿に似た建物があり、空中階段で繋がれているが、菅原道真公には延長八年六月二十六日内裏清涼殿に落雷したとの伝説がある。このとき、高位貴族数人が死傷し、生きている空中の道真公を見たとの伝説が生まれた。

そして、牛天神、道真公が丑年に生まれ、牛を可愛がったとの伝説から天満宮はそう呼ばれることがある。菅原道真公も牛頭天王[スサノオノミコト]も出雲出身の神であり、巨岩伝説と繋がる。

また織田信長戒名なのだが、死後、寛政重修諸家譜などの記録では、まず「天徳院」となっている。有名な長興寺の肖像画も裏には「天徳院」とある。そのあと「総見院泰巌安公」と変えられるが、
「天徳」なる元号は朝廷にあるのだ。調べてもらいたい。

天徳は、三年で終わっている。このとき、天災、旱魃、内裏でも色々な災いがあり、「天徳は、火雷天神の号にして忌むべし」とされ、改元された。火雷天神とは菅原道真公、あるいはその眷属をさすという。

あの平安期の天慶承平の大乱で新皇を宣言した平将門も「火雷天神」の旗を使った。なぜなら、その位は巫女に取り付いた菅原道真公の仲介により八幡神より位を貰った、別説は八幡神と菅原道真公の連署により天皇位を貰った、との神託によるものだったからである。

「安土」なる名がその平将門の首を祀ったとされる「築土神社」、別名「田安明神」から来た可能性もあることは述べた。平将門は菅原道真公の分霊との伝説もあった。

もっとも、誤解されないように言っておくが、菅原道真公が祟り神のはずもない。道真公は、藤原氏との政変に破れ、九州大宰府に流された後も天皇家、朝廷と国の平安、安泰を天拝山などで祈られて亡くなられたからである。高徳で、清廉潔白な人格、行動は知られ、後に北野や大宰府で学問、芸術の神様として祭られている。祟り神などにされて、怒られているだろう。
が、つまりは、その不遇の死に憤った人々によって、暫くの間、そうなった、朝廷にひどく祟った事になったということである。

問題なのは、大和朝廷と対立したとき、その世に人気ある天神様を利用しようとする人々も居ることだろう。信長は、そのタブーをやろうとした可能性があると疑われたのではないだろうか?故意なのか、それとも知らずに触れたのか、それは解らない。

だが朝廷と対立しているとき、天神様とキリスト教を習合させようという様な動きをしたり、十一面観音を本尊とする「総見寺」で生き神となり、「わし自身が生きたる神、および仏だ」と言えば、疑われるに決まっていた。

天主においても、内部に描かれた釈迦、孔子、老子、三皇五帝、仙人たちなどは、多くが人間から神になった「救世主」であり、天神様に通じるところがある。
菅原道真公、天神様には別名「唐渡天神」との別名があるのである。

いまひとつ、信長の正式な戒名は「総見院泰巌安公」であるが「修羅が帝釈[大石]を動かす」との言葉があるのだ。修羅とは巨大石を滑らせる道具のことであるが、大石[たいしゃく]が帝釈天[たいしゃくてん]、[過去にはインドで天帝とされた神、その地位は時代と共に下がった]、の読みに掛けられていることは無視できないだろう。
なぜなら、「菅原道真公はその慈悲の心は十一面観音を初めとする観音の如く、その破壊力は帝釈天のごとく」と勧誘に説かれるのが中世においては普通だったからである。大石と泰巌。

「安土」、奇妙な一致もある、、、「安」の字は「ウ」+「女」でウメ、梅は天神様の象徴である、土は「十一」と読めないこともない。ところで、イエズス会の字は「IHS」と書くが、「H」の横棒「-」の上に「+」が乗っているのである。「土」の字の如く。不思議な一致、と信長が思っても不思議はない。

「だいうす」、漢字では「大臼」「大宇須とも書く」地に教会を建てる。「石神」を意識していても不思議ではない、、、。京都にもダイウス町をつくり、宣教師の協会を建てた、、。

これら幾つもの事項から、私は「安土城天主閣」を西洋のキリスト教神と日本の神を統合しようとした巨大なシンボルだったのではないか?と考える。それは壮大で、まさに信長好みの考えだった、と思われる。

だが、それは決して朝廷や、仏教徒、神道徒の人々には受け入れられることではなかっただろう。なぜなら、織田信長の考えは、それまでの日本の旧文化、文化的創造物の全てに係わる問題にもなるのだから。
[そして、崇拝する天神様を南蛮の神と一緒にすることに、怒った人々もいたに違いない]

「西洋の神と日本の神を一緒に?、それから神、あるいは救世主になって、その先、いったい何をなされるのか?」 そう思ったとき、明智光秀、柴田勝家のこころに理解できない風が吹いただろうことは否定できない、と思う。
それは、また、自らを「第六天魔王信長」と豪語した男の過去への思いにも繋がったに違いない。

第六天魔王、すなわち仏教への挑戦者、破壊の神、、、ではないか、、、と、、、。

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本能寺の変、安土城は何のために建てられたのか?

■本能寺の変において、何処を探求すれば真相への手掛かりが得られるのか? 難しい質問である。
しかし、京都、安土城、岐阜、清洲、、、信長の何かの行動が本能寺の変を招いたと推測すれば、探す場所は限られてくるようにも思われる。

中でも、やはり安土城こそは、一度は調べなくてはならないだろう。何故に、信長は岐阜を捨て、あのような琵琶湖の東岸に巨大な城を建てたのか? 戦略的要地なのか、それとも補給関係か、或いは情報収集、宗教的、商業的なものか、それともただの景色を楽しむ趣味に似たものなのか? 

いずれにせよ、あのような場所にわざわざ巨費を投じ、壮麗な巨城を造営する以上は、何か信長の心底をインパクトするものがあったに違いない。しかし、私は、幾つか資料を調べたが、そこに戦略的や補給的な要地とも思えなかった。

単純に言えば、安土なる場所は気候がいいとは言えないし、軍隊の集結、補給においても、それほどの好地とは思えない。琵琶湖の横にあるために風が強く、寒く、冬は大雪が降る。いくら景色が良くとも、大雪は軍の移動、補給、連絡には大敵である。

また、何か決死的な防衛ラインにどうしても安土周辺が必要か?というと、そういう訳でもない。織田家、信長の拠点、ライフラインといえば、尾張ー美濃と見るのが普通だろう。どうしても、軍事的要塞を築き、守らねばならない要地はその周辺と思われる。

では何のために安土城は築かれたのか? それはどうも京都を意識して、いたとしか思われない節がある。安土城は、何か京都攻略の拠点として造られたのではないか? しかも宗教的な、、、そんな感じがするのだ。

例えば、安土山は薬師如来関係の霊地である。関係する地名、仏像、薬師を本尊とする桑実寺が側にある。また幾つか墓地らしき巨岩群、仏像を模した石、古墳群などが側にあったという。
信長の氏神が津島牛頭天王で、薬師如来の化形身、つまり分霊みたいなもの、とされることは前に述べた。安土には驚くべき巨岩がいくつか運び込まれたというのだが、牛頭天王は石神に関係するという。牛の角は槍や刀に似ているし、鍛冶、金属加工に関係していても不思議ではない。

例えば、インドのヒンズー教の大主神シバは暴風雨神と牛崇拝の合わさった神だが、その象徴は三日月である。これは剣とか牛角に例えられる。また総見寺なる信長を神体とする寺を造ったのだが、置かれている御神体は盆山なる石であった。

その側には天主、天主閣なる巨塔を建造したが、NHKなどによれば仏舎利[釈迦の骨]を納めた宝塔が一階にはあり、中は吹き抜けで、能舞台まであったという。幾つかの霊的な舞のある能を城内で催すというのは、何か、特別な思慮があるとしか思えない。

太田牛一「信長公記」によれば、一階は居間、墨梅、二階は花鳥、瓢箪から馬の絵、麝香鹿、駒の牧、西王母、三階の岩、竹、松、古代聖人の許由、巣父、鷹、とまりの木、五階に描かれた釈迦像と十大弟子たち、六階の中国の古代の聖人、孔門十哲、七賢人、三皇五帝らの絵像、外見、周囲に黄金、赤色をふんだんに使われていたという。何か天道的な宗教思想を表しているのではとの説も否定できない。

安土城は地下一階、上六階の構造をなすが、中央には地下から三回にいたるまでの吹き抜け構造だったというのも、何か西洋の教会を模したとの話がある。これらは何か宗教、しかも特別な神の根源、になるものだったのではとの推測を深めるのは充分である。そこで安土宗論なる日蓮宗、浄土宗の宗教対決が天正七年に行われたのも、意図的なものに思われる。

天主閣とは、何故このように造られたのか? 前にも書いたが牛頭天王はスサノオノミコトと同神とする見方がある。そして、その別名が「武塔天神」なのである。何か信仰に関係あるのでは、と思える。

勿論、私は宣教師ルイス・フロイスの「信長は完全な無神論者である。ひとは死ねば灰、土になるのみといった」との言葉を否定するものではない。だが、科学の発達していない中世時代に、多くの人々が神仏や、目に見えない玄妙なもの、霊を信仰していた時代、その利用が役に立つと思ったかもしれない。例えば、南無阿弥陀仏を唱えて鉄砲の前に命知らずに立つ一向一揆門徒を見て、彼もこのような兵士が欲しいと思ったであろうし、それをつくる宗教の不思議さも考えたに違いない。
その場合、薬師如来の霊地で自らを神と豪語した彼の心底はだいだい想像できるような気もする。

ところで、問題なのは、こういうことを周囲が知らなかったと言えるだろうか?ということである。 少なくとも、この場所の情報などは誰かから聞いただろう。実は、その場合、明智光秀の存在が大きくクローブアップされてくるのだ。光秀は外部から来、足利義昭の家臣からの中途採用なのに、不思議にも一番早く近江で城持ち大名に抜擢されているからである。
しかも、京都鬼門封じのために建てられた寺である比叡山延暦寺焼き討ちの後、そのすぐ側の坂本城に、である。

後に、彼は日向守とされた訳であるが、京都大和朝廷の原点は日向朝廷である。どうもこれを意識しているとしか思えない官名である。そして、牛頭天王は丑寅[鬼門]の主とされているが、坂本城、安土城にせよ、京都から見ると丑寅、とくに寅ではないかとも思われる。「寅薬師」なる言葉があることは前に述べた。

京都から見ると鬼門なる方位、霊地にわざわざ造られた天主とは何なのか

実は、私は昔、ひとつの文書を読んだことがある。それは城などを攻める際、相手の鬼門、丑寅方位から攻めるというのがひとつのセオリーだったというのだ。何故かは解らない。だが、災厄の来る方位として人々が、北東・丑寅・鬼門を怖がっていた、という迷信?などからは頷けるところがある。その方位に向かって行き、死ぬというのは、何か病になる、縁起でもないと兵らが嫌がったのかもしれない。

また京都の市民らもひどく家相などで、この方角を怖がるという。丑寅の方角には門をへこませるとか、御祓い、祠を建てる、何も造らないなど神経を使う。よく知らないが、星回りで凶方位になるなどの年には工事も行事もしない家もあるという。

信長がこれらの京都の風習を知らなかったとも思えない。何故彼は、伏見とか、もっと気候的にいい場所に本城を築かなかったのか? なぜ、自らの神格化を宣言したのか? なぜ明智光秀は坂本城で、日向守なのか?

実は朝廷もこれを何か意識していた節があるのだ。
天正九年二月、三月の京都大馬揃え、つまり大軍事パレードの後、信長は正親町天皇に、誠仁親王への譲位を要請する。
研究家明石散人氏はこの譲位要請を「誠仁親王を天皇即位させ、これを一刻も早く暗殺、退位させる。そして信長の猶子五宮[誠仁親王の皇子]を即位させ、織田信忠の娘と婚姻させる。さすれば信長は天皇の父、外祖父として権勢を振るえる、そのため」とする。

だが、その天皇、朝廷の譲位拒否の言葉が「当年、金神の年にて引き延ばし」なのである。

この金神は丑寅[艮]の金神ともいわれ、金神七殺、この神のいる方位を犯せば七人の人間が死ぬという大凶神である。そして、この神が誠仁親王のいる二条城から内裏を見ると丑寅[北東]で、廻っているから、というのが言い逃れなのだ。だが、実際は、歳が違って、回っていなかったという。

驚くべきことに、信長は全く何も言わずに安土城に帰ったのである。
当時の天皇の大行事、譲位、即位式すら延引させる凶神。さて、この金神は牛頭天王の配下、眷属との見方もあるのだ。不思議な一致、、、

そして、これらを思い合わせると、明智光秀が「ときは今、あめが下知る五月かな」と五月二十八日、虎が雨、虎が涙の日、日本一有名な連歌を詠んだのも決して偶然とは思えないのである。寅薬師、薬師如来は寅の日が縁日であるがゆえに。

安土城は、京都攻略のために、わざわざあの場所が選ばれて建てられた。そうではないだろうか? 勿論、さまざまな反論はあるかもしれない。

だが、金神の歳という譲位拒否の言い訳は、実は回避方法があるのである。別の場所に一定期間住んで、金神の方位を避けるなど。そして後柏原帝、桓武帝と金神の歳の即位もあるという。それを全くせず、信長の申し出を拒否したところに、私は京都から丑寅方位の安土城に対する警戒心を見てならない。それはまた、次の段階へのステップになったのではないだろうか?

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本能寺の変、光秀の最大の軍事同盟者、柴田勝家!

■本能寺の変、光秀最大の軍事的同盟者、柴田勝家■
ひとつの物語の中に、もうひとつの物語が生まれ、そして、その中にももうひとつの物語が生まれる。そして、その傍系の物語が主系統と勘違いされることもある。

例えば我々が現在読む物語は、その時代にはただの脇役の物語で、勝者になったから主役なのだと我々が勘違いしているだけなのかもしれないのだ。本能寺の変にも信長、光秀、秀吉以外に本当の主役がいた。「京都秘密文書」、私はそこにある幾つかの不思議な書き込みを長年検討してきたが、ひとつの結論に達している。

よく言われる「明智光秀は、信長を殺した後、どうするつもりだったのか? 先の見通しの全くない謀叛を起こして気が狂ったか?」という疑問、これへの答えである。朝廷と明智光秀には、軍事的同盟者がいた。

その名は織田家重臣「柴田勝家」である。
なぜそうなのか?京都秘密文書にどういう書き込みがあるかはパクリがあるので言えないが、その謀叛の黒幕としての要点を述べよう。

一 滝川一益が長年の工作の末、武田家重臣木曾義昌を裏切らせ、武田滅亡に追い込み、主将武田勝頼の首、大領を得るという大功を立てた。これで織田内部の地位が逆転しかねなくなった。

二 その一益は関東の上野と信濃二郡を与えられ、勝家の長年の敵越後上杉と国境を接した。もし一益が越後を工作、あるいは旧武田家臣団をもって大勝することになると、長年にわたり越中、加賀あたりで大軍を釘付けにしていた勝家は無能の責任を問われるだろう。事実、重臣佐久間信盛は長年にわたる石山本願寺攻めで無能の烙印を押され、追放されている。

三 過去に勝家は、信長の弟信行を奉じて謀叛を起こした罪がある。重臣林通勝は、それも原因で追放されている。

四 勝家は過去、上杉謙信に加賀手取川で大敗し、信長に恥を掻かせた。

五 信長はキリスト教を導入し、仏教徒だった柴田勝家にショックを与えた。

六 勝家の領国である越前や加賀国などは、もともと一向一揆の勢力が強く、それへの信長の鎮圧は過酷であり、多くの恨みを領民に持たれていた。治安に問題があり、大謀叛が起こり、責任を問われて失脚する可能性が充分にあった。

七 勝家の家臣団は旧朝倉、旧浅井の家臣団を含んでおり、京都と係わりが深かった。これは近江浅井氏の祖が藤原氏、朝倉氏の祖が皇族とされてることなどに注目してほしい。朝倉氏の一乗越前谷が小京都とされているなど、交易ルートが長年京都とあった。

八 勝家は五万から四万とされる大軍を動員でき、充分に信長と対抗できる立場にあった。明智軍や朝廷勢力が加われば、新幕府の中心的存在になれるであろうとの自負があった。これには武勇家とされる男の、老年になり、一花咲かせようとの山っ気もあったかもしれない。

九 織田信長の第六天魔王、天魔という悪評や過酷な神社、仏閣への破壊についていけなかった。

■このような視点で見ると幾つか本能寺の変前後に都合のいい点が見つかる。まず勝家が三ヶ月におよび囲んだとされる越中の魚津城を六月三日にすぐ陥落させ、その後、変事が伝わってもパニックになることもなく全兵力を保持して撤退していることである。

さらに最大のライバルである上野国滝川一益の軍は北条軍に攻められ壊滅した。甲斐、信濃でも旧武田家臣の反乱などが起き、甲斐で新領主河尻清隆は殺され、光秀討伐の兵を動かすなどという状態ではなくなった。

また四国渡軍に三男信孝といた重臣丹羽長秀の軍二万五千ばかりもパニックを起こして四散、指揮能力のなさを暴露した。美濃でも安藤氏の乱が起こっている。つまり柴田勝家の最大のライバルらは失脚同様になったといっていい。その甲斐、信濃、北条への工作も越中あたりからなら充分可能なのである。

事実、この後の統治をどうするか?を決めた清須会議においては柴田と羽柴の二大勢力争いになったが、不思議なことがあった。柴田勝家は秀吉の近江長浜城をよこせと主張し、譲らなかったが、そこは浅井氏の小谷城の近くであり、後に浅井長政の妻だったお市の方と結婚していることである。

近江勢力、、、安土城が殆ど光秀の前に無血開城し、財宝、兵糧をそのまま渡していることに注目してもらいたい。
守将蒲生氏も藤原氏系統であると言われている。

お市の方は知ってのとおり、夫浅井長政を殺され、ドクロの杯とされ、長男[お市の方の子ではないとの説もあるが]は串刺しで殺された。娘三人も長政の実子であるため、信長にどういう目に遭わされるかはわからなかった。お市の方が信長に好意を持っていたかは解らない。腹違い、つまり側室の腹の妹である。むしろ嫁ぎ先の浅井長政の子供らを奉じる人間たちの方がはるかに頼りになる存在だったかも知れないのだ。

「京都」-「近江・浅井」-「越前・朝倉」、
このように考えると、まさに、長年にわたり培われた京都へ、京都からの交易、交流の太い道であったことが解かる。柴田勝家を口説いたのは、そのルートなのだ。

そして、また我々は、そういう視点で見ると奇妙な動きをしたひとりの人間が居たことに気づくだろう。「前田利家」、後のしずが岳の戦いで勝手に退却し、柴田勝家の大敗北の原因を作った人物、そして秀吉が親しげにその居城の前に数騎で乗り付け、開城させ、味方にした人物、後に加賀に百万石の大領を与えられ、秀吉に最も信頼された人物、、、。
柴田勝家の側に彼は居た、、、前田利家も信長からの扱いを憎んでいたという話がある。だが、、、、もし大きな情報を掴んでいたら、、、、この線は、さすがに私もよく解らない。

いずれにせよ、日向守明智光秀が朝廷を心配して動いたのは間違いない。それは、東宮誠仁親王とよく連絡を取っているのを見ても解る。だが、朝廷は光秀の兵力だけでは、強大な織田軍の報復に耐えられないのを承知していた。それ故に、もう一人の立場を心配している有力重臣を抱きこんだのである。五万の軍を動員できるとされる北方軍司令官柴田勝家、彼が光秀に協力すれば、変後の事態はかなり安心である。
さらに勝家にしても、朝廷の命令、あるいは何らかの地位を受ければ、立場は安全と思えたことだろう。その軍は殆ど完全なまま、越前に帰還した。

ただ誤算は、羽柴秀吉、この男の存在だけだったろう。それも最大のライバルが、滝川一益と考えていればこその間違いだった。しかし、柴田勝家は軍事面では自分が一番上と自負していたことだろう。それは軍事での赫々たる経歴を見れば、頷けなくもない。だが、事態は予想外の敗北を招いた。何が予想外だったのか? それはまた別の部分で述べたい。
ここでの結論は「朝廷と明智光秀の軍事的同盟者は柴田勝家」であったということである。これにより、幾つかの本能寺への疑問のいくつかは氷解することだろう。

根拠のひとつを述べよう。
天正十一年[一五八三]三月の賤ガ嶽の戦いで勝家は秀吉に負け、越前北ノ庄で四月二十四日に天守閣を炎上させ、お市の方と自刃する。

辞世は
「さらぬだに、打ちぬる程も、夏の夜の、夢路をさそう、ほととぎすかな」お市の方。

「夏の夜の、夢路はかなき跡の名を、雲井にあげよ、山ほととぎす」勝家である。

この二つの句には「ほととぎす」が出てくるが、この鳥の名は辞書を見てもらいたい。「あの世からの使い」「魂迎え鳥」「しでの田長」などの別名がある。
「死出の田長」、誰かを思い出す名前である。

「雲井・雲居」も辞書を引いてもらいたい。「内裏・宮中」の意味がある。

「山」であるが、牛頭天王と同神とされる「スサノオノミコト」は「泰山府君」なる神と合祀される。
「山からの死者の使い」「かっこう鳥と同じ、巣の乗っ取り屋」、それがほととぎすである。

「打ちぬる」という使い方は珍しく、「打ち」は強調を意味するが、ほとんど「ぬる」濡れるの強調には不自然である。むしろ「打ち」は「討ち」に通じることが多い。

本能寺の変は「夏の夜」に起こった。ふたりが強調している「夢路」とは何なのだろうか? いずれにせよ、旧暦の四月に「夏の夜」、「夢路」、「ほととぎす」、「雲井」のことを強調して二人はともに死ぬ。そこに夢路跡の名をあげよとの勝家の主張はどういう意味だったのだろうか?

そして、我々は次の不自然な歴史の展開を知ることになる。豊臣秀吉の天下と政権は、お市の方の娘茶々とその子秀頼が全てを取った。
その側にいたのは、石田三成、大野治長を中心とする近江勢力である。

本能寺の変、そこでの裏の本当の主役は、柴田勝家とお市の方だった。
ひとつの視点は、本能寺の変について長年抱かれた幾つかの大疑問を簡単に解消させるのではないだろうか?

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検証 本能寺の変、逆アリバイ説!

■織田信長最大の真実■
天正十年六月十五日、この日、安土城天主閣は謎の出火により、大炎上をして消失する。この六月十五日は「天王祭」、中部地方などでの牛頭天王の大祭日。

ところで宣教師フロイスは、次男の織田信雄が火を点けたとも書いている。「天王祭の日」に、信長の象徴とも言うべき安土城天主を焼く。すると、そこには、また別の意味が出るのかもしれない。

■明智光秀アリバイ説■
かって、信長殺しは明智光秀にあらずとし、光秀のアリバイを主張した人がいた。作家の八切止夫氏である。説によれば悪天候、豪雨により光秀は連歌会を開いた愛宕山から下山できず、その間に家臣の斉藤利三が信長の妻、濃姫の命令により勝手に軍を動かし、信長を討ったとする。その理由は、悪妻排除に対抗して、というものである。勿論研究家には酷評されているが、注目するべき逆の点に私は気づいた。

それは、もし本能寺に黒幕などがいたと考えた場合、「彼」は現場か、その近くにいたがるのではと思える点である。もし貴方が自分の全財産、一生どころか、命を賭けた相場をどうしても張らなければならなくなった、としたらどうだろう? 信頼できるプロに運用を任せたとしても、遠くはなれた場所でのんびりできるだろうか? 

むしろ一刻も早く結果を知りたいとか、プロがうまく行かなければ、何とか自分で修正できるところは修正したいと考え、側に居たがるのでは? 少なくとも、勝負場から遠く離れた場所にいる気にはならないだろうし、どうしても遠くに居なくてはならない立場になったとしても、一刻も早く結果を知るために、連絡役を何人も用意しておくのではないだろうか? 
そして、できれば相場、勝負を自分である程度、有利にコントロールしたいと願うのではないだろうか? その場合、自分の血縁、親類の多い場所を選ぶのが絶対に有利である。相手が大物すぎ、勝負が確実に命に係わる場合、なりふりは構っていられないだろう? 

そういう目で、幾つかの本能寺の黒幕といわれる人々の様子、反応を見てみよう。まず信長に追放された前将軍「足利義昭」であるが、この人の反応は鈍すぎる。彼が組んでいたら、少なくとも光秀が沓掛で軍を京都に向けた時点で、何らかの連絡網が動いて謀叛の第一情報をいち早く毛利に届けていなければならないはずだが、それがない。光秀も謀叛の誘いを受けていたとしても、あまり連絡の取れない相手を信頼し、そのために動くとも思えないのだが。

次に、よく言われる「徳川家康」、信長が自分を警戒し、何時か外様として滅ぼされることが分かったから、、、となるが、そうなら京都に居て、いち早く信長の死を確認した方が有利なのでは? また、こっそり光秀に自国三河に帰る為の馬や護衛など借りられるのでは?とも思える。光秀と組んでいた、など、兵を合わせてに戦わない限りは、よく外部には解らないだろう。しかし、実際は堺見物しており、よく信長の死も確認しないまま、伊賀越えで逃げているのだから、殆ど無関係となる。

他にも、キリシタンの陰謀、堺商人、高野山、本願寺勢力、キリスト宣教師など色々と黒幕は言われるが、頻繁に連絡を取っているか、現場近くで、すぐに新情報を入手できるような充分な手配り、人配置をしていたか? できたか?となると疑問は多い。
普段見慣れない目つきの悪い連中、どこの者かよくわからない人々が、本能寺や、妙覚寺付近をうろついていたら、盗賊の多かった時代、妙な疑いを掛けられ、捕縛される可能性すらある。

しかし、京都で疑われずに情報を収集できる人々もいる。普段見慣れた人々、家を持つ住人である。朝廷、貴族の人々を前提に推理してみると、どうなるのか? 何か、この心理点にピッタリくるような気がしてならないのだ。
知ってのとおり、京都は数百年も都の続いた場所である。そこでどのように人脈、情報網が繋がっているかはよく解らない。しかも狭い地域なので、当然、色々な商売や友人、縁戚関係はあると見るべきだろう。

また寺、神社が多く、法事や葬式、行事の集まり、茶会、連歌会、本の講義などの集まりも多い、必然的に知識階級の顔見知り、友人も多くなる。縁戚関係なら、信長の近来の行いについて多少非難をしても、安心できるだろう。
さらに、京言葉、貴族独特の言葉もあるという。他の地方の武士が側で聞いていてもよく解らない言い回しもある。
古書、歴史書の講義などもある。例えば光秀は細川藤孝、里村紹巴と丹後に遊び、源氏物語の本読みを楽しんだというのだが、信長をそれらの登場人物の誰か、平家物語の悪人の誰かに例え、悪口、非難を言ってても、それらにうとい他人にはよく解らないことだろう。

そのように、さりげなく読書会、連歌会、茶会で陰謀をめぐらす事は可能ではないだろうか? 平清盛について書いていた文書、手紙が実は信長打倒の事。それらの文書は証拠に見えるだろうか? なるだろうか? 
光秀はそうやって頻繁に読書会などで連絡を取る。また重臣たちを説得するが、彼らは半信半疑だろう。だが、ある日、彼らも知る前関白の大物が亀山か坂本城に遊び、本読みにやってきて用意と勝利を確約する。勿論、それはあくまで「平家物語の中の源氏の勝利」である。

だが、京都近郊沓掛で重臣たちは、そのときに来た大物の従者の顔を、道案内として見ることになる。

重臣たちは、光秀の言葉どうりに信長、信忠が京都で討て、安土城が無血開城したこと、大阪の四国渡海軍が四散し戦力消失したことで信頼する。

だが、ここでひとつの誤算が生じていた。信長の死体が本能寺で発見できず、その生死が不明になったことである。その苛烈な性格、報復の仕方は知られている。さらに織田家には次男信雄、三男信孝、柴田、滝川などの遺臣団の大軍も健在である。その為、光秀は朝廷からの勅命、令旨を公表しなかった。この前の南北朝の長い争乱は知られているし、光秀としては事態を複雑化することを好まなかった。

変当時、織田の重臣は彼方此方に散らばっているので、信長の死が伝われば敵と交戦したり、私欲から同盟したり、独立したりし、分裂するのではないだろうかと光秀は見ていた。

そして、それらの変の連絡、秘密文書、手紙は平清盛討伐の話として、読まれても気づかれずに残っている、、、。

人はその勝負の現場に、近くにいたがるという心理的に見る推測、、、

だが、京都、ひとつの戦場、地縁、人間の心理を考えると、なんとなく可能性は高いとも思える。光秀はその細川家への手紙によれば五十日から百日で近国の情勢は安定するだろう、その後は引退すると書いている。これは安土城、坂本城、亀山城なる堅城を持ち、京を保持し、一万五千から二万ほどの軍を集めえると考えている大名には、ちょっと欲が小さいように思える。

しかし、逆に考えれば、彼は近畿圏では確実に勝てると考えていた節があり、それは、やはりこの辺りなら充分な地縁と情報が得られるので、殆ど負けがない、と考えていたからではないかとも思えるのだ。

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検証、本能寺襲撃への道すじ! ひとつの名前!

■織田信長最大の真実■
天正十年六月十三日、明智光秀と羽柴秀吉の山崎天王山決戦日。この日は昔、京都などの祇園祭、牛頭天王の祭日。昔は六月七日から十四日まで。普通「天王」というときは牛頭天王を指す。この日と天王とつく場所が何故か決戦に選ばれた。

■検証・明智光秀の本能寺襲撃方法、計画はプロか、アマか?■
ひとつの人生を左右する事件、その手段には起こした人間の性格、履歴、知性、行動力などが反映することが多い。例えば泥棒、詐欺師、殺人者などは同じ手口を繰り返すことが多いという。なぜそうするかは本人もよくわからず、ただ、そうしていれば安心できるからだという。不思議な話だ。何かそこには運命めいたものの匂いすらする。では一国の運命を左右するような事件の場合は?精緻な傑作だったのか?ただのやっつけ仕事だったのか?

明智光秀は六月一日の夕刻丹波亀山城の東、野条より完全装備の一万三千の軍を発した。軍は三分隊に分けられ、午後九時だった。夕刻の進軍は敵地などでは危険なのであまりしない。勢力圏でもよほど急ぐ必要がある場合に限られる。部隊編成後、光秀は首脳を集め、軍議を行っており、ここで重臣、とくに斉藤利三、明智秀満らに謀叛を打ち明け、念入りに主旨を言い含めた、という。亀山城から京都までは二十キロ足らず、夜間の移動、早暁の本能寺襲撃、その後、側の妙覚寺の織田信忠を討つとの手順になっていたという。一万三千の軍は二列縦隊になればおよそ七キロ。京都近郊老の坂に午後十時半、その先の西国と京都への分岐点沓掛に十一時から十二時ころに到達、このとき小休止し、兵糧を取らせた。

その後、先鋒隊長安田国継を発進させる。軍を四・五キロ前進、京都桂川西岸で戦闘用足半草履にさせ、連続射撃用の火縄を鉄砲隊に用意させる。桂川を渡った時点で信長、信忠討ちの布告が兵になされ、部隊は千本通り、大宮通、姉小路通り、新町通りに別れ、二・五キロ北進、午後四時には大半が本能寺に到達、攻撃した。
先陣を指揮したのは斉藤利三で、「旗さしものが引っかからないように、木戸は押し開いて通るように。思い思いの道を通り、本能寺の森、サイカチの木、竹やぶを目指せ」と言ったと「川角太閤記」にある。織田信長、信忠は全く気づかず、この後本能寺、二条城の戦闘で切腹する。
全ては計画的なのか? ただのアマチュアなのか?

私が時々思うのは、光秀が怨恨、野望いずれにせよ、京都で信長を殺す必要が絶対にあったかという疑問である。過去に幾つか主殺しなどというものがあるが自城への誘殺、毒殺、あるいは一見それとは解らぬような事故死、戦死などというものがよく使われているような気がする。例えば、信長が毛利としか思えない部隊の奇襲で、原野で死んだ、というシナリオでも動機がただの個人的な怨恨、野望ならば別にかまわなかったような気がする。だが、光秀は名を汚すにしても、京都本能寺という場所、其処での襲撃を選んだのであり、そこには何かそうでなくてはならなかったものがあったのかもしれない。

検証として、まず老いの坂、沓掛での小休止を見てみよう。道の分岐点で兵を小休止する。そしていきなり京都に向かう。ここで何らかの報告を受けたのは間違いない。するとここまでは中止可能だったのでは? となるとよく言われている別方面から逃げ道を塞ぐために京都に入った分隊は無いと考えられる。そして、この後、明智軍は道に迷わず行動している。どう考えても誰か京都に詳しい道案内が数人来ているのではと思える。
この変で、何が一番重要なのか、信長が女遊びなどに行かず本能寺に確実にいることだが、六月一日、内裏を空にするほどの貴族の訪問、信忠、京都所司代室井貞勝の挨拶、囲碁の名手の観戦をし、彼は確実に本能寺に居た。それを確実に知ったからこそ、迷わず行動した、としか思えない行動である。

また斉藤利三の言葉にあるように、当時町境には盗賊よけの木戸があった。この盗賊よけの木戸の開閉のことは研究家、細川廣次氏の本「信長は誰か」新人物往来社に詳しい。が、これらの木戸は大軍には大変な障害になる。あの有名なナポレオンのワーテルロー会戦の時には、ちょっとした垣根、切り通しの小路が大軍の大変な通行障害になって多くの犠牲者が出た。ところが、光秀軍にはそれらが全く邪魔になっていない。となると? これらの道案内は京都木戸の開け閉めにも顔が利くとなる。

さらには桂川を渡った時点で、戦闘用草履、火縄の用意をさせた兵士らが動揺をしていないこと。
街中に宿泊していた信忠の馬周りにも気づかれていないなど、アマ、やっっけ仕事にしては不自然な事項が相次ぐ。いやむしろプロの手口ではないか?

また火事の問題もある。当時火事はすぐに燃え広がり、非常に恐れられた。幾度も京都は火難に遭っている。これら火と煙は実は逃げるにも都合がいい。信長が火を点けよと命じたのも、そういう意図があったからかもしれない。ところが、本能寺、妙覚寺、二条城と炎上したにも係わらず、何も周囲の民家に燃え広がっていないことである。特に本能寺は燃え尽きるまで放置されていたというのだが。この点は、どういうことなのか? この後、残兵狩りが明智軍に行われている。敵がまだ居る中で明智の兵は消火活動をしたのか? 或いは完全武装の殺気に満ちた兵士らがうろつく場所、そこに町衆でもすぐに行ったのだろうか?

また二千の馬廻りを率いて妙覚寺に居た嫡子織田信忠が、京都から逃げられていない。私は前に沓掛での転進前に、逃げ道を塞ぐために別道に動いた別働隊はいないだろうと書いた。ではなぜ逃げられなかったか、それは木戸などが閉まっていたり、何処かからか弓矢などで射たれたからかもしれないのだ。その警戒から、二条城に篭ったのかもしれない。

ただ信忠が五百ほどの兵士を集め、篭った二条城攻撃は、明智軍にしては少しお粗末ではある。隣の近衛邸の屋根から鉄砲を乱射しての力づくである。だが、これは当時誠仁親王の座所であり、禁裏と同じ扱いだった城に立て篭もるなど、不敬、非常識なことをするはずがないという思い込みがあれば別に不思議なことではない。当時、天皇は天子だったのであり、まさに名を汚すような逃げを武将ならするはずはない、という前提が頭にあったのではないだろうか。

結論として襲撃はかなり完成されているのでは、京都に味方が居たのは確実ではと思える。普通は独裁者信長は常に巨城と五千の兵に囲まれている。逆に言えば、信長は五千の兵士、親衛隊から離れることはあまりない。これらの兵は野戦などでは信長ひとりを守る、逃がす為に常に訓練を受けているのであり、影武者、おとりの役目も喜んで受け入れるだろう。家康、信玄などにも敗戦時、喜んで成り代わって死んだ者がいた。信長は名馬一匹あれば、、、という立場である。だが、京都では全くそれが出来なかった。信長も、彼に何かあれば織田全軍の指揮をとれる織田信忠も何故か京都から逃げられなかったのであり、その理由のひとつとして、京都市民の多くが彼らを嫌っていたのではないかとの推測もある。信長は上京都を焼き討ちし、かなりの被災を出したこともあるのだ。

私はひとつの名前に注目する。明智軍先鋒隊長「安田国継」の名前である。織田信長一人を逃がせば全ては崩壊するのだから、明智軍先鋒隊は光秀に主旨を含められた必殺隊だった筈である。その彼が後に改名している。「天野源右衛門」と。光秀は土岐源氏だった。右衛門府、左衛門府、ともに内裏の門を守るとの役職である。そして辞書には「御門・みかどと読む。帝のことである」と言葉がある。

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ひとつの痕跡、本能寺には何が残っていたのか?

■織田信長最大の真実■
天正十年六月二日京都本能寺の変、「第六の月」+「二日の変」。
織田信長が武田信玄に宛て、第六天魔王信長と豪語する手紙を送った事はフロイスの記録などにより知られている。第六天魔王[大自在天]とはインドのヒンズー教の主神のひとりシバ神のことで、仏教破壊の神、その象徴は仰半月[シバ神は三日月がシンボルマーク]である。

「二日の変」、「天に二日無し、土に二王無し」中国「礼記」。
信長の主城は「安土」、この日に信長が死んだのは偶然か、そうではないのか?

■「痕跡、凶器、、、何が現場に残ったのか?」■ 
名探偵シャーロック・ホームス、金田一耕助、エルキュール・ポアロ、彼らが殺人、事件現場に来た時、まず屈んで虫眼鏡など取り出し、彼方此方と這い回る。そして皆があきれ返る中、どうでもいいような物を取り上げ、意味不明なことを言い出す。あの人、大丈夫ですか?と言われながら、終盤に来たとき、それらのどうでもいいような小さな品物、出来事が突然重要な意味を持ち出す。やがて被害者だった筈の美女の大復讐劇の真相が、、、。などと貴方も中学か高校時代に興奮しきった過去をお持ちだろう? 

しかし大半それは用意された手掛かりであり、実際の大事件に残される事は殆どない。本能寺の変の現場に何か重要な真相への痕跡はあるのか?と問われると? 「別にない」、と従来はされてきた。

いや、研究者たちに止めを刺してきた凶器はある。例の丹後宮津に居た細川藤孝[幽斎]への援軍を求める六月九日日付の明智光秀自筆の手紙である。本物と鑑定される署名と花押がある。この光秀絶筆の内容は孤立した身が悲鳴を上げているようだと評価され、思いつきでやった謀叛を後悔しきっているようだとされている。内容は、

一 細川親子の出家を怒るも仕方のないこととし、大身、身分の高い侍でも出して、協力してくれと頼む。
二 褒賞の国のことに触れ、摂津をやる。但馬、若狭がお望みならそうするとし、必ず貴方の希望どうりにする。

三 私が予想外のこと[原文では、我ら不慮の儀。つまり本能寺の変のことを指すとされる]を決意したのは忠興[幽斎の子]などをを取り立てる為である。他にはない。五十日か百日以内には近国などを制圧するであろうから、その後は十五郎[光秀の長男]、与一郎などに引き渡して引退するつもりである、仔細は二人の使者が申し述べる。

まさに文句のつけようのない思いつき襲撃の手紙。いったい何をもって本能寺の変にケチをつけることが出来るのか?せいぜい「ときは今、あめが下知る五月かな」の愛宕連歌会の初句をもじって野望説が怨恨かを論議するのがせいぜい。誰かが黒幕、背後にいた説など、論外。所詮、まともな説にあらず、、、、、、。絶対の研究者殺しの凶器。

しかし、本当になかったのか? いや痕跡はあった。奇妙なる矛盾、疑惑に満ち、そして仔細なることばかりではあったが、、、、、。

一 明智光秀は京都近郊老の坂で軍を小休止させ、何かを待っていた。そして、軍を突如京都に向けた。だが何があったのか? 誰か来たのか?は、全く無視された。

二 あるテレビ番組で研究された多量の兵の鎧の音は、なぜ京都に泊まっていた信忠の馬廻り、警備兵に気づかれなかったのか? 

三 京都粟田口などで神官吉田兼見、勅使勧修寺晴豊が出迎えようとしていた。それを信長が何故か知っていたこと。彼らは無用と言い渡され帰った。

四 六月一日、内裏を空にするほどの高位の貴族が本能寺を訪れ、深夜まで何かを長時間話し合っていること。

五 吉田兼見、勧修寺晴豊、御湯殿上日記などが書き直されたり、四散されている不思議さ。

六 前関白近衛前久の屋敷が織田信忠が篭った二条城攻撃にすぐ利用され、前久が光秀敗北後逃げ隠れしていること。

七 戦場の真ん中の二条城から出てくる誠仁親王の輿を愛宕山連歌会に参加していた連歌師里村紹巴が用意していること。紹巴は近衛前久の子飼いであった。また誠仁親王と光秀の間を何度も往復した吉田兼見も近衛前久の家礼である。

八 光秀の娘は細川忠興の妻であるが、忠興の妹は吉田兼見に嫁いでいる。そういう細川家から、光秀自筆の手紙は出た。

九 一番の疑惑は、謀叛を起こすほどの邪悪、利己主義なる筈の明智軍が京都で全く略奪をせず、皇族貴族を人質にとっての無理な官位、勅命の要求などもしていないことだろう。負ければ全て失うという状況の中で、この余裕は何なのか? 

だが疑惑、仔細な痕跡は絶対の証拠品の前では常に取るに足らぬ下らぬものとされる。細川家の光秀自筆、花押の手紙は、犯罪者の捺印のある自白調書、自殺者の署名入りの遺書にも匹敵するではないか! これは覆しようがない? 
いや本当にそうだろうか? ひとつの疑惑を述べよう。明智光秀は本当に細川家の兵力をあてにしていたろうか? 当時の細川家は丹後十二万三千五百石、一万石で二百人動員としても戦況を左右するほどの大名とも思えない。味方してくれればあり難いが、味方しなくてもそれほどの、、、と思っていたとしたら? 内容には真実を書いたろうか? そう思ってみると真実よりも、情に訴えている文のようにも思える。
では、明智光秀が、戦況の行方で、本当に当てにしていたような大名は他に居るだろうか? 手紙どころか、たとえ軍を動かしてでも味方させなければならないと思っていたような、細川家よりもはるかに重要人物。そして本能寺の変においても、何か重要な意味を持っていたと思えるような人物。

一人、、、、確実にいる。

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矛盾する事件、本能寺の変、、、

■「織田信長、最大の真実」
安土城の名前は何処から来たのか歴史の謎である。作家井沢元彦氏は「安国楽土」とし、また「安生養土」極楽とする研究家もいる。だがもうひとつの回答がある。「築土神社。つくど。新皇平将門の首を祀った神社」、武将太田道灌が場所を移して以来、「田安明神」ともいう。「築土」と「田安」、、、そして「安土」■

■本能寺の変は何時から始まるのだろうか? 
それによって事件の全てが大きな変貌を見せる。何時から? ある人は秀吉が中国から援軍要請した時点といい、ある説は光秀が安土城で不手際をし、信長に叱責され、家康の接待を解任された時点を指摘、また前年の天正九年二月京都大馬揃えにおいて、、、或いは変の前日、信長が本能寺に無防備に宿泊しているのを知って思いついたとする人もいる。上の「安土」の名の由来もひとつの回答に過ぎない。いずれにせよ、それは光秀の心の中に聞くしかない。
一般的なのは天正十年五月二十八日、京都近郊愛宕山での連歌会で、初句に「ときは今、あめが下知る五月かな」と光秀が詠んだ句を、土岐氏が今、天下を統治するときが来たのだと解釈し、この時点で、天下への野望が芽生えたのだとする。
しかし、野望にせよ、怨恨にせよ、あまりにもこの事件が矛盾に満ち満ちているのをご存知だろうか?まず事件の概要を述べよう。
天正十年五月十四日、家康が駿河を貰った御礼のために穴山梅雪とともに安土城を訪れ、信長自らの接待を受けた。そのあたりに中国高松城包囲の羽柴秀吉から援軍要請の使者が来る。秀吉は単独で毛利に勝てたが、あまりに大功を立てると信長の嫉妬を生むので、最後の勝利を譲るためとされている。信長は近畿の諸将に動員をかけ、自ら出陣を宣言、光秀も軍動員のため十七日、家康接待の任を解かれ、安土より京都大津の坂本城に戻った。
なお二十一日に徳川家康は織田信忠とともに上洛している。

光秀は五月二十六日、丹波亀山城に移る。なお二十七日、光秀は京都近郊愛宕山に参詣、一泊し、翌日二十八日、西坊において連歌会を開いた。このとき有名な「ときは今、あめが下知る五月かな」を読む。この句は天下とりへの大望の意なのか? しかし、大事前にそんな句を読むはずがないとする説もある。これらの句を神前に納め、光秀は亀山に帰った。
二十九日、家康は梅雪とともに堺を観光する。
織田信長は二十九日、安土を立ち、小姓二、三十人を引きつれ、京都に入った。他にも従者がおり、総勢は百人前後ではなかったかとされる。このとき神官吉田兼見、貴族勧修寺晴豊が出迎えのために出たが、出迎え無用との使者を受け、引き返した。
翌日六月一日、正親町天皇、誠仁親王の勅使勧修寺晴豊、甘露寺経元を始め、内裏を空にするほどの高位の公家、関白、前関白など四十人ほどが訪れ、僧侶、商人も同席し、茶、菓子が出、信長と数時間の歓談があったという。その後、信長は囲碁の名手の勝負を観戦し、寝入った。

光秀は六月一日、重臣を集め、謀叛を打ち明けた。完全武装の兵士らには京都まで信長の閲兵を受けに行くと説明したという。一万三千の軍は亀山城を夕刻に出陣、夜間行軍し、京都近郊老の坂で休息した。しかるのち、桂川を渡河、鉄砲の火縄の用意をし、本能寺に向かって前進させた。本能寺はいかなる理由か全くこの奇襲、包囲に気づかなかった。かって越前朝倉氏攻撃時、浅井軍に後方遮断されたことを気づくや、報復を誓い、単身馬一匹に飛び乗り、死地から逃げたほど行動力のある信長だったが、逃げ道は見つけられなかった。本能寺で「是非に及ばず」と言い、暫くの交戦の後、火炎の中で自刃したとされる。いかなる理由か死体は発見されなかった。

このあと、嫡子信忠も死んだ。信忠は二千の馬廻りを率いて、側の妙覚寺にいたが、本能寺の重包囲を見、救出をあきらめ、かき集めた五百人ほどで誠仁親王の座所二条御所に入った。何ゆえ大軍を前に少数で篭城などという無謀をしたのかよく解らない。光秀の軍は妙覚寺を焼き討ち、二条御所を包囲した。この後、交渉が行われ、誠仁親王と家族が退避する。その後、戦闘が再開、信忠の軍は頑強に抵抗するが、となりの前関白近衛前久の屋根に上った鉄砲隊からの銃撃により、犠牲が続出。ついに信忠も館に火をかけて切腹した。本能寺の戦闘は午前六時頃、二条城の戦闘は午前八時ころから一時間とされる。このあと明智軍は落ち武者狩りを行ったが、京都の治安はかなり早く回復した。光秀はすぐに近江攻撃の兵を向かわせたが、瀬田橋が焼き落とされたために、修理を命じ、自身は坂本城に戻った。
六月五日、光秀は信長の安土城に入った。
六月七日、吉田兼見が勅使として安土城に来、戦勝を祝す。
九日、光秀は再び主力と共に上京し、公家や町衆の出迎えを受けた。光秀は吉田兼見邸で何事かを話、朝廷、京都五山、大徳寺、兼見にも銀を献金する。下鳥羽に出陣。
十日、洞ヶ峠で筒井順慶の援軍を待つが無視された。
十一日、再び下鳥羽に布陣。

十三日、有名な山崎天王山で、中国から引き返してきた羽柴秀吉と織田信孝の大軍と戦い、敗北。勝龍寺城に引くが、夜間に脱出、山科小栗栖で土民に討たれた。首は家臣が隠したが、発見され、十五日に胴と共に本能寺に晒されたという。
十五日、安土城が謎の炎上で消失している。

よく知られた事件の概要。
しかし、この前半の精緻さと、後半の何も無さ、工夫のなさはどういうことだろうか? 光秀には謀叛後の計画は何もなかったのか? 織田家一の知識人といわれながら、味方のあてもなしに信長を殺したのか? しかし信長と信忠、その周囲への攻撃の仕方は見事ではないか? だった数時間で織田の中枢を消し去り、その本城安土は無血開城し、財宝を手に入れている。また美濃では安東守就なる将が挙兵し、稲葉一鉄と戦っている。さらに大阪の織田信孝四国渡海軍二万五千は変を聞き、パニックを起こして四散、七千ほになり、戦闘力を消失した。
あまりに前半は都合のいい展開、しかし後半は全く味方も、隆盛もなかった。この事件の持つ奇妙な矛盾は何なのか?これらがただの思いつき説、怨恨や、ノイローゼ説を生んだ。しかし、「真実」は、そこに矛盾は何も無いことを示している。

実は、明智光秀は、山崎天王山の決戦で勝てるはずだったのだから、、、。

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本能寺の変の真実への解明方法。

「戦国史最大の謎とされる本能寺の変は、実は一九九七年二月に全て解明されている!」

しかしながら、いかなる方法をもってこの迷宮を解明するべきか?当然、私は四百年前の巨大迷宮の入り口で迷うしかなかった。もっとも正直に書くと、解明などできるわけがないし、適当なことを書いて目立ってみたい、程度の魂胆しかなかった。

ところで貴方は四百年前の迷宮入り事件を推理せよと命令されたらどうします?
おそらく 一 大学教授、学者などの俗に言う識者などの話を聞く。
二 岐阜、安土、坂本、京都本能寺など関係現場に行き、実地に戦国時代の雰囲気を味わってみる。
三、残された当時の手紙、記録、絵画、遺跡などの本物を目で見、検討する。
四 新しい証拠品、[手紙など]が出ないか、適当な、寺、旧家などの場所をめぐる。くらいしか思いつかないのではないか?

実は私もそうである。この程度しか思いつかなかった。しかし、本能寺の変が起きて四百年も経つので、史料、資料などは出尽くしているといっていい。戦国時代の有名人の書いた書簡などは破格の値がつくことが多いので、旧家などはあれば必ず出すだろうし、研究者たちも鵜の目鷹の目で色々と調べつくしているに違いない。私の野心?などは可愛いものにすぎなかった。

また、万にひとつの僥倖に恵まれて、何か本能寺関係の光秀の手紙が出てきたとしても、真偽が必ず問題になる。持ち主が偽物となることを恐れて科学鑑定などさせなかったら、それまでである。さらに、私や持ち主に悪気がなくても、後から偽物と判断されたら、まさにひどい汚名となるだろう。
この前、ある鑑定番組で見たが、ただ所領を先祖に与えるというだけの武田信玄直筆の手紙が偽物だった。江戸時代、家柄に箔をつけるのが流行った時代があり、その為に捏造されたものなのだという。だから迂闊に信用できない。もうひとつ、本能寺関係の光秀、その側近の手紙などはそれなりの勢力があった家にしか出されなかったろう、それらの歴史ある旧家が残されている手紙を調べないということがあるだろうか? いや、あえていうなら、家臣などの書簡が出てきたところで無駄になるかもしれないのだ。

実は光秀の娘の嫁いだ細川幽斎家に、明智光秀自筆の手紙が残されているのだ。本能寺の変後、援軍を乞うた手紙で、ここでは略すが、援軍のこと、国を与えること、自分が不慮の儀、つまり思っても見なかったこと、本能寺の変をなしたのは、自分たちの子供と細川忠興[幽斎の子]のことを思ってのことであると明記され、日付、名、花押がある。
思いつきでやったとの歴然たる証拠品があるのだ。
細川家のような格式ある大名家に伝わる証拠品、どうされるおつもりかな?
普通の家臣の手紙があっても太刀打ちできないだろう。
大半の研究者は黒幕説追及など此処であきらめる、研究しても無駄だと思う。

だが、本当にそうだろうか? その手紙が真実だったのか? 
実は違う、本能寺の変の真実は「朝廷説」だったのだ。歴史の真実はもっと深遠で、豊かだった。そして、真実へのキーは、明智光秀を敬愛する人々により、世に残されていたのである。東大教授さえも思いもよらぬ方法によって。
日本には、国宝の中に本物のダ・ビンチ・コードがあったのだ。だが、それを知るには少し基礎知識がいる。ゆえに、少し、この後が長くなるのを我慢していてもらいたい。

だが、私が世の人々に騙り、ペテン師だ、などといわれるのも心外、問題なので、次の一点を書いておこう。

明智光秀が本能寺の変直前の天正十年五月二十八日、京都近郊愛宕山に登り、神社で連歌会をなしたことはよく知られている。
あの日本一有名な連歌「ときは今、あめが下知る五月かな」を詠んだ会である。だが、何のために出陣前の多忙なときに、あそこでなしたのかはよく解らない。京都市街を目で見て確認するため、誰かと連絡を取った、愛宕神社から軍資金を得るためなどと色々といわれている。何か大きな目的は他にあって、連歌会はそれをするための偽装だったのだろうとは私も思う。が、初句「時は今」の意味が色々といわれていることは事実である。

ところで、一番最後、百番目の句、「国々は猶、のどかなるころ」
これは実子、明智光慶が詠んだことになっているが、実は光秀の句だという。
実は、その前の九十九番目に気になる文字があるのだ。
「色も香も酔をすすむる花の本」心前。
この花の本、「花の下」ともあるが、どちらも[はなのもと]と読む。
もともとは室町時代など、花の下で行われた連歌の権威者が次第に公認され、一時代に一人を限り朝廷に許されるようになった名誉の称号のことである。
また、その意を踏まえ各界における第一人者も指すようになった。との意味のある言葉なのだ。その句に答えたのが光秀。
その句は「国は猶、長閑なるとき」と答えたとの伝もある。
「はなのもと」「長閑」、、、、織田信長が係わる大事件直前に、こういう言葉があるのは偶然なのか?、、

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