状況! 京都、本能寺での変は必然か? 偶然の産物か?

■織田信長最大の真実■
六月一日、この日は「天王降ろし」、祇園祭などで牛頭天王を迎える行事の日である。明智光秀は丹波亀山城からこの日の夕刻軍勢を発した。牛頭天王は鬼門[丑寅]のヌシとされ、薬師如来の化形身のひとつ。また薬師如来は寅、とらの日が縁日。光秀が出撃前、虎が雨、虎が涙の日に神に祈願した理由は何だったのか?

■「京都、本能寺の変は必然か? 偶然か?」■
ひとつの事件が起こった時、必然か偶然の産物か、それがいつも問題となる。例えば太平洋戦争で日本が四隻の空母を失い、完敗したミッドウェー海戦、ブーゲンビル上空での山本五十六大将の米戦闘機に待ち伏せされての戦死、いずれも最初はただの偶然の産物とされた。前者は偶然に米空母が付近におり、爆撃機と雷撃機に同時に襲撃されたために日本戦闘機は防ぎきれなかったのであり、後者は偶然にパトロール中の優勢な敵に襲撃されたための悲劇である。
だが、戦後、この二つの事件は暗号が解読されていたために計画的に襲われたのであり、いずれも慎重な作戦の勝利であったことが判明した。偶然か、必然か、その見分けはまさにそれ以後の歴史の見方、分析を左右するといって良い。

では本能寺の変は? 研究家藤本正行氏は偶然の産物とする。天正十年四月、木曾義昌の裏切りに乗じた信長の総攻撃により甲斐武田家が滅亡した。甲斐、信濃、駿河、上野などが織田領地になったことにより、有力武将河尻秀隆、森長可、滝川一益などが統治の任に当てられた。さらに毛利側の備中高松城を包囲していた羽柴秀吉、越後上杉と交戦していた柴田勝家、前田利家、佐々成政、また丹羽長秀と織田信孝は四国討伐軍二万五千と大阪、長男信忠は安土、次男信雄は伊勢松ヶ島、と織田の武将は分散しており、近畿は空白地帯だった。すぐに大軍を動かせるのは当時、家康の接待をしていた明智光秀とその配下の大名だけだった。

そして、この大軍の動員を五月十七日あたりの羽柴秀吉の援軍要請を受け、命令したのは信長である。その命令なくば明智光秀は亀山に軍を動員することもなかったし、信長を京都で襲うタイミングを得ることもなかった。つまり、偶然の重なりがチャンスを産んだ。その傍証とし、彼は陰謀の防諜の難しさを挙げる。陰謀に人が加担すればするほど、その秘密保持は難しくなる。陰謀の当事者、付き人、いろいろな目撃など気にする要素は多い。また人の口に戸は立てられないし、恩賞目当ての密告者の心配は後を絶たないというのだ。それ故、明智光秀の謀叛は、偶然の重なりがチャンスが産んだ。

この論理にはそれなりに納得できることがある。天下人信長に命に係わるような陰謀を密告すれば、その恩賞は莫大に違いない。それがなかったのだから、直前に思いついたと考えられなくもない。だが、軍事的に空白地帯かと言えば、安土には五千、京都にも二千、大阪には二万五千の完全装備の軍がいた。さらに光秀の配下大名が味方していない事など、その先をどうするつまりだったのだ?との疑惑もある。

では、変を必然とする見方はどうか? 
実は必然とすれば、まさにそうにも見れる時なのだ。武田家が滅んだ時点で織田家を滅ぼせるような勢力は見当たらない。この後、毛利が滅ぶか、降参するのは装備、兵力からも確実である。越後の上杉は柴田軍に押されているし、関東の北条も友好的態度である。どちらも京都に軍を進めるような余裕はない。四国の長曾我部も劣勢である。何よりも信長が毛利を討ち果たし、この際九州までも支配すると豪語した「信長公記」。

もし毛利が滅ぶか、織田に降伏し分割されたと仮定する。そうなると、仮に京都で謀叛を起こしても、援軍は九州、四国から呼ぶことになるが、移動に海軍、大量の船が必要である。しかし、瀬戸内海の水軍は毛利や織田が支配しているし、海を挟んでの充分な補給は長期、悪天候など考えると難しい。また九州はキリスト教が盛んであり、キリシタン布教に寛大な信長に、友好を示すキリシタン大名大友宗麟などもいる。正直、その辺りからの大援軍など京都まではとても期待できない。それどころか、毛利滅亡を聞き、なし崩し的に織田傘下に入る可能性もある。

しかし毛利が健在な時点なら? 中国地方の羽柴軍などは即刻交戦になり、身動きできなくなるとの推測もできる。毛利勢力がある、なしの時点の「変」では、織田家、周囲に与える影響がまるで違うのである。つまり、京、近畿でのクーデターが援軍、或いは何らかの補助を受けて成功する最終線ではなかったかと疑える節もある。

では、真実はどうだったのか? 
「真実」は、まさに最終ラインだったことを示している。なぜなら、これ以後は信長が京都、皇族、貴族を人質に取ったと同じ事になるからである。光秀の後に京都を任されるのは三男織田信孝とその軍だった。そうなると、織田家へのクーデターなどは殆ど不可能に近い。そうである。光秀の個人的野望、怨恨で京都で大軍は動かせない。
もともと光秀が、勝ち馬と決まった天下人信長を裏切る理由はひとつもない。信長についていれば一生は安泰である。とやかく言われる怨恨説の逸話、野心家の逸話も殆ど出鱈目、根拠無しが証明されている。光秀は同盟者家康の接待を任されるほどの立場にあったし、軍功、治安の才能も高く評価されていた。多少信長の機嫌を損ねても、人質、養子に信長の息子をとる、娘を側室に出すなど家安泰の手はいくらもある。個人的に保身の道はいくらもあるのだ。

では何故、老齢にもなって、変を起こしたのか? 京都だから、、、、其処でなくてはならなかった。それ以外には考えられない。
その根拠がある。 

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矛盾する事件、本能寺の変、、、

■「織田信長、最大の真実」
安土城の名前は何処から来たのか歴史の謎である。作家井沢元彦氏は「安国楽土」とし、また「安生養土」極楽とする研究家もいる。だがもうひとつの回答がある。「築土神社。つくど。新皇平将門の首を祀った神社」、武将太田道灌が場所を移して以来、「田安明神」ともいう。「築土」と「田安」、、、そして「安土」■

■本能寺の変は何時から始まるのだろうか? 
それによって事件の全てが大きな変貌を見せる。何時から? ある人は秀吉が中国から援軍要請した時点といい、ある説は光秀が安土城で不手際をし、信長に叱責され、家康の接待を解任された時点を指摘、また前年の天正九年二月京都大馬揃えにおいて、、、或いは変の前日、信長が本能寺に無防備に宿泊しているのを知って思いついたとする人もいる。上の「安土」の名の由来もひとつの回答に過ぎない。いずれにせよ、それは光秀の心の中に聞くしかない。
一般的なのは天正十年五月二十八日、京都近郊愛宕山での連歌会で、初句に「ときは今、あめが下知る五月かな」と光秀が詠んだ句を、土岐氏が今、天下を統治するときが来たのだと解釈し、この時点で、天下への野望が芽生えたのだとする。
しかし、野望にせよ、怨恨にせよ、あまりにもこの事件が矛盾に満ち満ちているのをご存知だろうか?まず事件の概要を述べよう。
天正十年五月十四日、家康が駿河を貰った御礼のために穴山梅雪とともに安土城を訪れ、信長自らの接待を受けた。そのあたりに中国高松城包囲の羽柴秀吉から援軍要請の使者が来る。秀吉は単独で毛利に勝てたが、あまりに大功を立てると信長の嫉妬を生むので、最後の勝利を譲るためとされている。信長は近畿の諸将に動員をかけ、自ら出陣を宣言、光秀も軍動員のため十七日、家康接待の任を解かれ、安土より京都大津の坂本城に戻った。
なお二十一日に徳川家康は織田信忠とともに上洛している。

光秀は五月二十六日、丹波亀山城に移る。なお二十七日、光秀は京都近郊愛宕山に参詣、一泊し、翌日二十八日、西坊において連歌会を開いた。このとき有名な「ときは今、あめが下知る五月かな」を読む。この句は天下とりへの大望の意なのか? しかし、大事前にそんな句を読むはずがないとする説もある。これらの句を神前に納め、光秀は亀山に帰った。
二十九日、家康は梅雪とともに堺を観光する。
織田信長は二十九日、安土を立ち、小姓二、三十人を引きつれ、京都に入った。他にも従者がおり、総勢は百人前後ではなかったかとされる。このとき神官吉田兼見、貴族勧修寺晴豊が出迎えのために出たが、出迎え無用との使者を受け、引き返した。
翌日六月一日、正親町天皇、誠仁親王の勅使勧修寺晴豊、甘露寺経元を始め、内裏を空にするほどの高位の公家、関白、前関白など四十人ほどが訪れ、僧侶、商人も同席し、茶、菓子が出、信長と数時間の歓談があったという。その後、信長は囲碁の名手の勝負を観戦し、寝入った。

光秀は六月一日、重臣を集め、謀叛を打ち明けた。完全武装の兵士らには京都まで信長の閲兵を受けに行くと説明したという。一万三千の軍は亀山城を夕刻に出陣、夜間行軍し、京都近郊老の坂で休息した。しかるのち、桂川を渡河、鉄砲の火縄の用意をし、本能寺に向かって前進させた。本能寺はいかなる理由か全くこの奇襲、包囲に気づかなかった。かって越前朝倉氏攻撃時、浅井軍に後方遮断されたことを気づくや、報復を誓い、単身馬一匹に飛び乗り、死地から逃げたほど行動力のある信長だったが、逃げ道は見つけられなかった。本能寺で「是非に及ばず」と言い、暫くの交戦の後、火炎の中で自刃したとされる。いかなる理由か死体は発見されなかった。

このあと、嫡子信忠も死んだ。信忠は二千の馬廻りを率いて、側の妙覚寺にいたが、本能寺の重包囲を見、救出をあきらめ、かき集めた五百人ほどで誠仁親王の座所二条御所に入った。何ゆえ大軍を前に少数で篭城などという無謀をしたのかよく解らない。光秀の軍は妙覚寺を焼き討ち、二条御所を包囲した。この後、交渉が行われ、誠仁親王と家族が退避する。その後、戦闘が再開、信忠の軍は頑強に抵抗するが、となりの前関白近衛前久の屋根に上った鉄砲隊からの銃撃により、犠牲が続出。ついに信忠も館に火をかけて切腹した。本能寺の戦闘は午前六時頃、二条城の戦闘は午前八時ころから一時間とされる。このあと明智軍は落ち武者狩りを行ったが、京都の治安はかなり早く回復した。光秀はすぐに近江攻撃の兵を向かわせたが、瀬田橋が焼き落とされたために、修理を命じ、自身は坂本城に戻った。
六月五日、光秀は信長の安土城に入った。
六月七日、吉田兼見が勅使として安土城に来、戦勝を祝す。
九日、光秀は再び主力と共に上京し、公家や町衆の出迎えを受けた。光秀は吉田兼見邸で何事かを話、朝廷、京都五山、大徳寺、兼見にも銀を献金する。下鳥羽に出陣。
十日、洞ヶ峠で筒井順慶の援軍を待つが無視された。
十一日、再び下鳥羽に布陣。

十三日、有名な山崎天王山で、中国から引き返してきた羽柴秀吉と織田信孝の大軍と戦い、敗北。勝龍寺城に引くが、夜間に脱出、山科小栗栖で土民に討たれた。首は家臣が隠したが、発見され、十五日に胴と共に本能寺に晒されたという。
十五日、安土城が謎の炎上で消失している。

よく知られた事件の概要。
しかし、この前半の精緻さと、後半の何も無さ、工夫のなさはどういうことだろうか? 光秀には謀叛後の計画は何もなかったのか? 織田家一の知識人といわれながら、味方のあてもなしに信長を殺したのか? しかし信長と信忠、その周囲への攻撃の仕方は見事ではないか? だった数時間で織田の中枢を消し去り、その本城安土は無血開城し、財宝を手に入れている。また美濃では安東守就なる将が挙兵し、稲葉一鉄と戦っている。さらに大阪の織田信孝四国渡海軍二万五千は変を聞き、パニックを起こして四散、七千ほになり、戦闘力を消失した。
あまりに前半は都合のいい展開、しかし後半は全く味方も、隆盛もなかった。この事件の持つ奇妙な矛盾は何なのか?これらがただの思いつき説、怨恨や、ノイローゼ説を生んだ。しかし、「真実」は、そこに矛盾は何も無いことを示している。

実は、明智光秀は、山崎天王山の決戦で勝てるはずだったのだから、、、。

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「真相! 過去の無い男、明智光秀」

織田信長の赫々たる戦績、武勲は知られている。
ところが明智光秀には四十歳前の過去がない。実はかき消されたかのように無いのである。彼が歴史の舞台に出てくるのは信長が美濃を制圧してからで、永禄十一年、将軍候補足利義秋[義昭]の使いとして登場する。当時、越前に身を寄せていた義昭は、態度を明確にしない朝倉家に業を煮やし、信長に上洛への援護を求めた。これが信長の天下への飛躍になったことは知られている。そのように需要な使者であったのだから、それなりの身分と礼式を知った人間でなければならなかっただろう。でなければ将軍候補の使者に選ばれるわけがない。

ところが明智光秀には四十歳前に何をしていたのか過去が全くないのである。彼自身によれば美濃土岐氏の出身となり、諸国を巡って武者修行していたとなる。しかし、それの書かれた「明智軍記」なる資料は誤謬多く、全く信用できないことが知られている。修行を示す書状などの確固たる証拠は全くない。出自はともかく、若年から中年まで何をしていたのか全くわからないのである。ここが少し明智光秀の人気に係わるところかもしれない。日本人の特質として、一から十まで経歴がはっきりしている人間を好む。空白の経歴など持っていると何をしていたんだ?と疑いの目で見ることになる。
しかし、驚くべき事だが明智光秀は信長の家臣の仲で一番最初に元亀三年、近江滋賀郡で城持ち大名になっているのである。古参の柴田勝家、木下藤吉郎秀吉より先なのだ。
信長の性格は、一面、かなり猜疑心が深かったという。その男がまさに新入りを京都近くの坂本城に据えているのだ。後に位、惟任の名、日向守まで与えて、、、。まさに不思議な話ではある。といって、光秀に何か凄い武勲があったのかというと、それほどのものは無いように思われる。彼は京都や堺で何か交渉、工作を担当していたらしいのだが、、、。

何にせよ、大名、城持ちに抜擢したということは、信長には何か光秀の過去について知っていた重要なことがあったと思える。それ故、京都近郊に据えても大丈夫と考えていたとしか思えない。或いは、何か、どうしても据えたい理由があったのだ。それは何なのか? 私はここにかなり重要なことがあるような気がしてならなかった。

いまひとつ、この後の天下人豊臣秀吉のこともある。秀吉にとって明智光秀は主君を討った極悪人のはずである。いや自分を正当化するためには、光秀は徹底した悪人の方が都合がいい。不明の過去時代があれば怪しいと徹底して調べるだろう。何かあれば暴いて貶める。もしすぐには解らなくとも賞金でもつければ誰かが密告して来たに違いない。だが、である。何もないのだ。確かに天下を狙った悪人とされているのだが、それだけなのである。まるで、権力者秀吉がかき消したのではないかと疑われるくらいに史料はない。

仮にも近江と丹波に大名として城を持った男にしては奇妙すぎる疑惑である。誰でも大名になったとき、経歴くらい自慢したいのではないか? 自分はこうやって出世したとか、これが出世のきっかけだなどと書き残したいはずである。だが、光秀の場合は書いていない、ただ自分は石ころのようにつまらない存在だったと言ったという。

私はこの奇妙な事実には大いに好奇心が動いた。もし光秀の過去に何かあるなら、その理由は二つしかない。何かの犯罪に絡んでいたか、それとも過去がわかると天下人秀吉などにも都合の悪いことになるからであろうと。そして、そのあとの徳川時代にも明らかになっていないとなるなら、家康にも何か都合の悪いこと? それほどの大きな秘密など世の中にあるだろうか? 事実、私はその想像を楽しんだ。「明智光秀の謎の過去には天下人すら隠したいような秘密がある?」そうやって文献を漁っていた私はひとつの興味深い言葉に当たる事になる。
それは今は亡き作家小林久三氏の「光秀の過去は僧侶だったのではないか?」との言葉である。小林久三氏は光秀天海説、明智光秀が影武者を使って生きのび、後に徳川幕府の黒幕、怪僧とされる南光坊天海になったという説を支持しいていて、これを補強する意味で軽く言っているのであるが、私には衝撃だった。というのは光秀が城を与えられた前、ちょうど京都鬼門封じのために建てられたという比叡山延暦寺が信長の大軍に焼き討ちに遭い、消滅させられているからである。そしてその後、光秀の与えられた坂本城はその近くである。そして京都の人々は病的なくらい鬼門[丑寅]方位を災厄が来るとし、恐れるというのだ。家の鬼門方位には何も作らなかったり、祠や神を置く。あるいはわざと凹んだ塀を作り、鬼門は無いとする。今でも凶方位として何か御祓いなどをしつこくするという。

比叡山では三千人の僧侶、老若男女を殺したという。信長も僧侶を多く殺したという事実を少し気にしていたのではないか? そして周囲の家臣も? するとその霊らを慰めるために誰かその方面に力のあるものを? 僧侶? いや僧侶の過去を秘密にするだろうか? 神官? あるいは災いを払う者としての陰陽師? そういえば信長の氏神、生土神とされるのは津島牛頭天王社ではないのか? 牛頭天王とは鬼門[丑寅方位]のヌシとされる神であるとも言う。ならば、神官? 光秀の過去は神に仕えるもの? だが何処の? 私はその独自の想像を楽しんだ。
だが、今から思えば、この想像は当たらずといえども遠からずだった。なぜなら、明智光秀背の過去が神官、或いは陰陽師と仮定すると、彼が新参ながらも織田信長に重んじられた訳、なぜ出陣前の五月二十八日に愛宕山に登り神社に参拝したかの理由、その後の行動の日付にもいろいろな意味、奇妙な一致が出てくるからである。まず次の点だけここでは述べておこう。

「ときは今、あめが下知る五月かな」と有名な初句を光秀が詠んだ「五月二十八日」、
この日に降る雨には特別な名前があること。

「六月一日」 夕刻、明智軍、丹波亀山城を出陣。
「六月二日」 京都本能寺の変
「六月十三日」 山崎天王山での戦い。
「六月十四日」
「六月十五日」 安土城天主閣、謎の炎上。

上の日はある神に関係する特別な日なのだ。その不思議な一致に明智光秀の過去を調べていて気づいたのは、おそらく私が日本で最初ではないだろうか? 
 ヒントは、「寅薬師」。

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本能寺の変の真実への解明方法。

「戦国史最大の謎とされる本能寺の変は、実は一九九七年二月に全て解明されている!」

しかしながら、いかなる方法をもってこの迷宮を解明するべきか?当然、私は四百年前の巨大迷宮の入り口で迷うしかなかった。もっとも正直に書くと、解明などできるわけがないし、適当なことを書いて目立ってみたい、程度の魂胆しかなかった。

ところで貴方は四百年前の迷宮入り事件を推理せよと命令されたらどうします?
おそらく 一 大学教授、学者などの俗に言う識者などの話を聞く。
二 岐阜、安土、坂本、京都本能寺など関係現場に行き、実地に戦国時代の雰囲気を味わってみる。
三、残された当時の手紙、記録、絵画、遺跡などの本物を目で見、検討する。
四 新しい証拠品、[手紙など]が出ないか、適当な、寺、旧家などの場所をめぐる。くらいしか思いつかないのではないか?

実は私もそうである。この程度しか思いつかなかった。しかし、本能寺の変が起きて四百年も経つので、史料、資料などは出尽くしているといっていい。戦国時代の有名人の書いた書簡などは破格の値がつくことが多いので、旧家などはあれば必ず出すだろうし、研究者たちも鵜の目鷹の目で色々と調べつくしているに違いない。私の野心?などは可愛いものにすぎなかった。

また、万にひとつの僥倖に恵まれて、何か本能寺関係の光秀の手紙が出てきたとしても、真偽が必ず問題になる。持ち主が偽物となることを恐れて科学鑑定などさせなかったら、それまでである。さらに、私や持ち主に悪気がなくても、後から偽物と判断されたら、まさにひどい汚名となるだろう。
この前、ある鑑定番組で見たが、ただ所領を先祖に与えるというだけの武田信玄直筆の手紙が偽物だった。江戸時代、家柄に箔をつけるのが流行った時代があり、その為に捏造されたものなのだという。だから迂闊に信用できない。もうひとつ、本能寺関係の光秀、その側近の手紙などはそれなりの勢力があった家にしか出されなかったろう、それらの歴史ある旧家が残されている手紙を調べないということがあるだろうか? いや、あえていうなら、家臣などの書簡が出てきたところで無駄になるかもしれないのだ。

実は光秀の娘の嫁いだ細川幽斎家に、明智光秀自筆の手紙が残されているのだ。本能寺の変後、援軍を乞うた手紙で、ここでは略すが、援軍のこと、国を与えること、自分が不慮の儀、つまり思っても見なかったこと、本能寺の変をなしたのは、自分たちの子供と細川忠興[幽斎の子]のことを思ってのことであると明記され、日付、名、花押がある。
思いつきでやったとの歴然たる証拠品があるのだ。
細川家のような格式ある大名家に伝わる証拠品、どうされるおつもりかな?
普通の家臣の手紙があっても太刀打ちできないだろう。
大半の研究者は黒幕説追及など此処であきらめる、研究しても無駄だと思う。

だが、本当にそうだろうか? その手紙が真実だったのか? 
実は違う、本能寺の変の真実は「朝廷説」だったのだ。歴史の真実はもっと深遠で、豊かだった。そして、真実へのキーは、明智光秀を敬愛する人々により、世に残されていたのである。東大教授さえも思いもよらぬ方法によって。
日本には、国宝の中に本物のダ・ビンチ・コードがあったのだ。だが、それを知るには少し基礎知識がいる。ゆえに、少し、この後が長くなるのを我慢していてもらいたい。

だが、私が世の人々に騙り、ペテン師だ、などといわれるのも心外、問題なので、次の一点を書いておこう。

明智光秀が本能寺の変直前の天正十年五月二十八日、京都近郊愛宕山に登り、神社で連歌会をなしたことはよく知られている。
あの日本一有名な連歌「ときは今、あめが下知る五月かな」を詠んだ会である。だが、何のために出陣前の多忙なときに、あそこでなしたのかはよく解らない。京都市街を目で見て確認するため、誰かと連絡を取った、愛宕神社から軍資金を得るためなどと色々といわれている。何か大きな目的は他にあって、連歌会はそれをするための偽装だったのだろうとは私も思う。が、初句「時は今」の意味が色々といわれていることは事実である。

ところで、一番最後、百番目の句、「国々は猶、のどかなるころ」
これは実子、明智光慶が詠んだことになっているが、実は光秀の句だという。
実は、その前の九十九番目に気になる文字があるのだ。
「色も香も酔をすすむる花の本」心前。
この花の本、「花の下」ともあるが、どちらも[はなのもと]と読む。
もともとは室町時代など、花の下で行われた連歌の権威者が次第に公認され、一時代に一人を限り朝廷に許されるようになった名誉の称号のことである。
また、その意を踏まえ各界における第一人者も指すようになった。との意味のある言葉なのだ。その句に答えたのが光秀。
その句は「国は猶、長閑なるとき」と答えたとの伝もある。
「はなのもと」「長閑」、、、、織田信長が係わる大事件直前に、こういう言葉があるのは偶然なのか?、、

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