偽書・奇書「本能寺の変、京都秘密文書」

■何が真相解明のキーになるのか?■
「偽書・奇書 京都秘密文書」

巨大な歴史の事件の裏には、常に奇怪なる文書が幾つか存在する。俗に言う奇書・偽書の分類である。何ゆえに出たのか? 何が目的なのか? 作者や意図するものすらわからず、それらの偽書・奇書なるものは存在し、時々、ふっと我々歴史マニアの前に現れては去っていく。

勿論、それらの多くは、ひと読みすれば何か金儲けか、浅薄な祖先の武功自慢、或いは家柄に箔をつけるために偽造されたものではないかと見分けがつくものが多い。紙質、時代考証、書かれている言葉、地名の使い方、信頼できる史料と読み比べると存在する事件の日時、関係者名の間違い。

しかしながら、学術研究においては価値を付けられず、笑止千万とされる数百の偽書・奇書の中には、時々ではあるが、我々を注視させる奇妙な部分、書き込みのあるものがある。

本能寺の変における偽書・奇書「京都秘密文書」もその類である。何ゆえ奇書「京都秘密文書」とするのか? それは正式な題名、作者を書くとパクられる可能性があるからである。だから、ここではそういう事にしておきたい。どうせ持ち主は「偽書」と宣言してるし、そこに書かれていることに学術的価値を全く見出していない。

私もその明らかに紙質や言葉使いの違う、無愛想な書き方の薄っぺらな書物、巻物でもない、、、を本物と断言する勇気もない。ちょっと書かれてあることに裏を取ろうとしたのだが、信頼性はそこに見出せなかった。特に信長の経歴、性格、明智家の家族などにおいてはかなり違っていた。地名などにおいては、作家井沢元彦氏が「鎌倉時代に東京タワーという地名を使った資料があれば、その価値は、、、」と言っているのと同じである。

だが、「本能寺の変において」は、、、、。いささか気になって仕様がない部分がある。しかも、ある程度正確ではないかとさえ思える部分もあるのだ。
だから、私は魅せられる。故に、ここにその不思議な話を、ちょっと書いてみたい。

例えば、信長の氏神である牛頭天王は薬師如来の化形身であるという神学。つまり牛頭天王は疫病を司る神であり、そのあらぶる魂を鎮撫するために祇園祭は起こり、薬はそれに通じるという一説は説得力がある。そして牛頭天王は朝廷、内裏に敬われつつも最も恐れられた神なのだという。

ところで、織田信長が戦略、政略的にももっと良い地は幾つもあるのに、安土なる地を選んで巨城を構築したのは、そこが薬師如来関係の霊地、霊山とされ、もともと薬師平なる地名、仏像、薬師如来を本尊とする桑実寺などがあったからだとする。

また「寅薬師」、薬師如来は寅の日[十二支の]が縁日という言葉が存在するが、信長が焼き討ちをし、三千人を殺した比叡山延暦寺は京都鬼門[丑寅方位]封じの寺であり、それに係わった明智光秀の坂本城はその側に存在する。
安土城も京都から見ると丑寅、特に寅方位ではないかとの推測も出来る。そこには「天主」なる巨塔を建てているが、牛頭天王[スサノオノミコトと同神ともされる]の別名は「武塔天神」である。
[また牛頭天王は鬼門の主である]
さらに信長の家紋のひとつ五つ木瓜紋は、津島牛頭天王社の神紋ではないかとの研究結果、、、。

奇妙な一致は、まだある。
先にも書いたが、天正十年五月二十八日、出陣前の慌しい中、明智光秀は京都近郊愛宕山神社で連歌会を開くが、この日に降る雨は鎌倉時代の曾我兄弟の敵討の故事にちなみ「虎が雨、虎が涙」という特別な名がある。[曾我兄弟の一人の死を、遊女虎御前が嘆き悲しんだということから]
明智光秀は「時は今、あめが下知る五月かな」と初句に詠んでいるが、この、あめがしたなる言葉は、天下と雨が下の掛詞である。
その句を、彼はわざわざ神前に奉納したのだ。

さて「六月一日」明智光秀の丹波亀山城出陣は「天王降ろし」の日、牛頭天王を迎える行事の日。
さらに「六月二日の変」は、自らを「第六天の魔王信長」との豪語の言葉、「二日の変」は「天に二日なし、土に二王なし」の中国礼記の言葉に掛けられたものと考えられなくもない。

「六月十三日」、山崎天王山の戦いも京都祇園祭りの日[昔は六月七日から十四日]、

「六月十五日」、中部地方などの「天王祭」の日に、信長の最高傑作安土城天主閣は謎の炎上により消失している。この一致は偶然といえるだろうか?

また別の一致もある、光秀には辞世の漢詩が残っている。

逆順無二門、
大道徹心源、
五十五年夢、
覚来帰一元

というものだが、歴史を見れば本能寺の変時の明智軍先鋒隊長安田国継は、後に何故か「天野源右衛門」と改名している。右衛門府、左衛門府、ともに内裏の門を守る役職である。ところで「御門、みかど・帝のこと」との言葉があるのだ。先鋒隊長といえば、もっとも重要な役目であり、光秀の最も信頼できる部下だったはずである。
その改名と辞世漢詩の一行目の「無二門」、二行目の「源」なる言葉はぴったりする。さらに四行目の一元なる言葉には「元号」の意味も含むという。「天正」、、、夢が覚めて、これに帰るとはいかなる意味なのか?

「牛頭天王」なる言葉を考えると、もうひとつ気になることもある。
「牛頭・ごず」なる奇妙な読みだが、これは「五月五日」の「牛神祭りの日」に掛けられているとの話があるのだ。今でこそ祝日だが、昔「五」は大凶数であり、「五月五日」に生まれた子供は、親を殺す者として殺されたなどの話が古の中国の話などには出てくる。日本でもその手の思想はあった。「五・ご」と「牛・ご」。
ところで光秀の過去は不明で、年齢はよく解らないことが知られている。辞世漢詩を見てもらいたい。横に読むと、つまり一番上の字だけとると

「逆大五覚」、つぎが

「順道十来」
「無徹五帰」
「二心年一」
「門源夢元」、、、

逆と大きく五を覚えた、、、順の道、天正十年、、、無に徹し五を帰す、、、、御門と源氏の夢を元[はじめ]る。

「天野源右衛門」と「牛神祭り・五月五日」を考え合わせると、そんな不思議な一致、読み方があると思えないだろうか? 

偽書「京都秘密文書」には、そういう不思議なこと、ヒントが幾つか書いてある書物である。
どこから、何処まで的確に書いてあるか、どこかからが私の推測、推理かは言えない。パクリがあるから。

しかし、偽書・奇書にしても不思議な書物だ。何か、元になった原本のようなものがあるのかも知れないが、私には見当がつかない。しかし、なかなかの豊富な要素があるように思える。
だから、もう少し、「閑話」として、書かれてある不思議なことを追求してみよう。

次は、ちょっと毛色の変わった、あの人間のことだ。

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ひとつの痕跡、本能寺には何が残っていたのか?

■織田信長最大の真実■
天正十年六月二日京都本能寺の変、「第六の月」+「二日の変」。
織田信長が武田信玄に宛て、第六天魔王信長と豪語する手紙を送った事はフロイスの記録などにより知られている。第六天魔王[大自在天]とはインドのヒンズー教の主神のひとりシバ神のことで、仏教破壊の神、その象徴は仰半月[シバ神は三日月がシンボルマーク]である。

「二日の変」、「天に二日無し、土に二王無し」中国「礼記」。
信長の主城は「安土」、この日に信長が死んだのは偶然か、そうではないのか?

■「痕跡、凶器、、、何が現場に残ったのか?」■ 
名探偵シャーロック・ホームス、金田一耕助、エルキュール・ポアロ、彼らが殺人、事件現場に来た時、まず屈んで虫眼鏡など取り出し、彼方此方と這い回る。そして皆があきれ返る中、どうでもいいような物を取り上げ、意味不明なことを言い出す。あの人、大丈夫ですか?と言われながら、終盤に来たとき、それらのどうでもいいような小さな品物、出来事が突然重要な意味を持ち出す。やがて被害者だった筈の美女の大復讐劇の真相が、、、。などと貴方も中学か高校時代に興奮しきった過去をお持ちだろう? 

しかし大半それは用意された手掛かりであり、実際の大事件に残される事は殆どない。本能寺の変の現場に何か重要な真相への痕跡はあるのか?と問われると? 「別にない」、と従来はされてきた。

いや、研究者たちに止めを刺してきた凶器はある。例の丹後宮津に居た細川藤孝[幽斎]への援軍を求める六月九日日付の明智光秀自筆の手紙である。本物と鑑定される署名と花押がある。この光秀絶筆の内容は孤立した身が悲鳴を上げているようだと評価され、思いつきでやった謀叛を後悔しきっているようだとされている。内容は、

一 細川親子の出家を怒るも仕方のないこととし、大身、身分の高い侍でも出して、協力してくれと頼む。
二 褒賞の国のことに触れ、摂津をやる。但馬、若狭がお望みならそうするとし、必ず貴方の希望どうりにする。

三 私が予想外のこと[原文では、我ら不慮の儀。つまり本能寺の変のことを指すとされる]を決意したのは忠興[幽斎の子]などをを取り立てる為である。他にはない。五十日か百日以内には近国などを制圧するであろうから、その後は十五郎[光秀の長男]、与一郎などに引き渡して引退するつもりである、仔細は二人の使者が申し述べる。

まさに文句のつけようのない思いつき襲撃の手紙。いったい何をもって本能寺の変にケチをつけることが出来るのか?せいぜい「ときは今、あめが下知る五月かな」の愛宕連歌会の初句をもじって野望説が怨恨かを論議するのがせいぜい。誰かが黒幕、背後にいた説など、論外。所詮、まともな説にあらず、、、、、、。絶対の研究者殺しの凶器。

しかし、本当になかったのか? いや痕跡はあった。奇妙なる矛盾、疑惑に満ち、そして仔細なることばかりではあったが、、、、、。

一 明智光秀は京都近郊老の坂で軍を小休止させ、何かを待っていた。そして、軍を突如京都に向けた。だが何があったのか? 誰か来たのか?は、全く無視された。

二 あるテレビ番組で研究された多量の兵の鎧の音は、なぜ京都に泊まっていた信忠の馬廻り、警備兵に気づかれなかったのか? 

三 京都粟田口などで神官吉田兼見、勅使勧修寺晴豊が出迎えようとしていた。それを信長が何故か知っていたこと。彼らは無用と言い渡され帰った。

四 六月一日、内裏を空にするほどの高位の貴族が本能寺を訪れ、深夜まで何かを長時間話し合っていること。

五 吉田兼見、勧修寺晴豊、御湯殿上日記などが書き直されたり、四散されている不思議さ。

六 前関白近衛前久の屋敷が織田信忠が篭った二条城攻撃にすぐ利用され、前久が光秀敗北後逃げ隠れしていること。

七 戦場の真ん中の二条城から出てくる誠仁親王の輿を愛宕山連歌会に参加していた連歌師里村紹巴が用意していること。紹巴は近衛前久の子飼いであった。また誠仁親王と光秀の間を何度も往復した吉田兼見も近衛前久の家礼である。

八 光秀の娘は細川忠興の妻であるが、忠興の妹は吉田兼見に嫁いでいる。そういう細川家から、光秀自筆の手紙は出た。

九 一番の疑惑は、謀叛を起こすほどの邪悪、利己主義なる筈の明智軍が京都で全く略奪をせず、皇族貴族を人質にとっての無理な官位、勅命の要求などもしていないことだろう。負ければ全て失うという状況の中で、この余裕は何なのか? 

だが疑惑、仔細な痕跡は絶対の証拠品の前では常に取るに足らぬ下らぬものとされる。細川家の光秀自筆、花押の手紙は、犯罪者の捺印のある自白調書、自殺者の署名入りの遺書にも匹敵するではないか! これは覆しようがない? 
いや本当にそうだろうか? ひとつの疑惑を述べよう。明智光秀は本当に細川家の兵力をあてにしていたろうか? 当時の細川家は丹後十二万三千五百石、一万石で二百人動員としても戦況を左右するほどの大名とも思えない。味方してくれればあり難いが、味方しなくてもそれほどの、、、と思っていたとしたら? 内容には真実を書いたろうか? そう思ってみると真実よりも、情に訴えている文のようにも思える。
では、明智光秀が、戦況の行方で、本当に当てにしていたような大名は他に居るだろうか? 手紙どころか、たとえ軍を動かしてでも味方させなければならないと思っていたような、細川家よりもはるかに重要人物。そして本能寺の変においても、何か重要な意味を持っていたと思えるような人物。

一人、、、、確実にいる。

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目撃者たち! 彼らは何を見、何を見れなかったのか?

■織田信長最大の真実■

明智光秀が京都近郊愛宕山で連歌会を開いた日、天正十年五月二十八日、この日に降る雨には、鎌倉時代、親の敵討で有名な曾我兄弟の死を嘆き悲しんだ遊女虎御前の故事にちなみ特別な名前がある。虎が雨、虎が涙。「ときは今、あめが下知る五月かな」、そのあめが下は、雨の下、天の下の掛詞である。何故この雨が問題になるのか? 

それは信長の安土城が薬師如来の霊地であり、[側の桑実寺も本尊は薬師如来]、信長の氏神牛頭天王もその化形身であるからである。そして「寅薬師」 薬師如来は寅の日が縁日とされている。
明智光秀は何故愛宕山の神前でこの雨を詠んだのか?

■目撃者■

いかなる事件においてもまず捜されるのが目撃者である。大事件になればなるほど目撃者は多くなる。だが、事件現場に居あわせたからと言って、彼らが事件の全貌を知ることはない。いわば巨像に止まった虫の如く、戦艦の建造に携わった工員の如く、一部分を知っていたにすぎず、後からニュース、資料を読んで、あの時はそういうことだったのか? と知るに過ぎない。事件がそのまますっきりするならいい。

しかし、それらの目撃の断片が、まるで巨大なパズルのように不思議な矛盾、疑惑を生み、事件そのものの真相をますますわからなくすることがある、本能寺の変はまさにそのケースだ。そしてその巨大パズルの肝心な部分は空白のままだ。本能寺側にいた宣教師、明智兵士本城惣右衛門、貴族勧修寺晴豊、神官吉田兼見、その他何人かの目撃談を繋ぎ合わせてみよう。すると奇怪な疑問点が幾つか浮上する。

一 知識人で慎重な行動、計画性により行動していた明智光秀が突然、無計画な謀叛を起こしていること。しかも、部下がそれらを支持していること。

二 用心深く、猜疑心が強いとされた信長があっさりと大軍に包囲されていること。

三 何故、信長が中国出陣前の忙しいときに、六月二日、京都本能寺に居たのか、理由がはっきりしないこと。

四 嫡子織田信忠も何故京都に居たのか、理由がはっきりしていない。彼は家督を相続している実質的な織田家の代表である。また二千人の馬廻り[親衛隊]を率いていた。

五 六月一日、内裏を空にし、四十人ほどとされる高位の貴族、高官が一度に本能寺に訪問しているのだが、なぜこの日に集中したのか理由が曖昧である。また贈り物をし、つき返されたというのだが、何のための贈り物だったかも不明。

六 なぜ信長が数十種の家宝の名茶器をもって京都に行ったのか、その理由がはっきりしない。誰かに披露するためなのか、売るためなのか? 

七 明智の大軍がやすやすと京都の門、盗賊よけの木戸、夜警の目をすり抜けており、あやしまれていない不自然さ。 

八 信長の死体が発見されていないという疑惑。

九 本能寺が襲撃されている最中、織田信忠が京都を脱出していないこと。彼は何故か五百人ほどで誠仁親王の居城二条城に篭城、討ち死にするが、大軍を前に要害でもない場所に篭るのは自殺行為ではないのか? 

九 信長の本城安土城には出陣前の五千の馬廻り[親衛隊]がいたとされるのに、無血開城し、全てが光秀の手に入っている不自然さ。

十 大阪にいた三男織田信孝の二万五千の完全武装の四国渡海軍が四散し、七千ほどになり戦闘力を消失した都合よさ。

十一 美濃で安藤氏の反乱が起き、また旧武田領などで武田残党の蜂起が起きている。

十二 京都で源平争乱時代の木曾義仲のように光秀が京都で略奪したり、皇族を人質にし、官位を出させていないこと。邪悪な謀反人にしては奇妙に規律正しい態度である。

十三 なぜ明智軍は、山崎天王山で大軍の羽柴軍を相手にしたのか? 戦略家光秀には大軍を前に篭城、要害で戦うなど手は知り尽くしていた。山崎のような平地、さして要害でない場所で負ければ、総崩れになることは知っていたはずなのにである。

十四 発見された死体が光秀のものかどうか腐敗していてよく解らないのに、秀吉は本人と断定した。そして、このあと、織田信孝が前関白近衛前久などの行方を捜索したにもかかわらず、何故か事件は有耶無耶になった。

十五 また目撃者への疑惑もある。例えば本城惣右衛門の証言は自分たちは最初は京都で信長の閲兵を受けると思っていた、誰を襲うか解らなかった、相手は徳川家康だと思っていた、ゆっくり行軍したという。だが、信長が単身馬に乗って逃亡すれば全てが崩壊する謀叛で、先鋒隊が何も知らないはずがあるのか? 前衛は必殺隊ではないのかとの大きな疑問。

十六 付け加えるなら、羽柴秀吉と軍があまりに都合よく中国から帰還し、てっとりばやく仇を討てた、都合のよさ。彼は何か知っていたのではないか?との疑惑。
これらの中には、過去、黒幕説にするために大袈裟に拡大された部分、捏造、どうでもいいような目撃者の言葉の都合いい曲解もあるかも知れない。

だが、そこには非常に興味を引く事実がある。それは光秀が謀叛後、すぐに安土城攻撃に向かっていることである。だが、そこには五千の中国出陣前の完全武装の兵士が居た。もし彼らが頑強に篭城していたら? 大阪には出陣前の四国攻撃軍二万五千がおり、大くの軍舟も持っていた。大阪から京都には二日? 急げば一日ではないのか? 明智軍が安土守備軍、織田信孝との間にすぐに挟み撃ちになり、壊滅する危険は大きかった。だがすぐに両軍ともパニックになって四散し、光秀に危機は全くなかった。この都合のよさは偶然だったのだろうか? いや、偶然ではないのだ。
なぜなら、そこにひとつの確たる証言が残されているからである。

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矛盾する事件、本能寺の変、、、

■「織田信長、最大の真実」
安土城の名前は何処から来たのか歴史の謎である。作家井沢元彦氏は「安国楽土」とし、また「安生養土」極楽とする研究家もいる。だがもうひとつの回答がある。「築土神社。つくど。新皇平将門の首を祀った神社」、武将太田道灌が場所を移して以来、「田安明神」ともいう。「築土」と「田安」、、、そして「安土」■

■本能寺の変は何時から始まるのだろうか? 
それによって事件の全てが大きな変貌を見せる。何時から? ある人は秀吉が中国から援軍要請した時点といい、ある説は光秀が安土城で不手際をし、信長に叱責され、家康の接待を解任された時点を指摘、また前年の天正九年二月京都大馬揃えにおいて、、、或いは変の前日、信長が本能寺に無防備に宿泊しているのを知って思いついたとする人もいる。上の「安土」の名の由来もひとつの回答に過ぎない。いずれにせよ、それは光秀の心の中に聞くしかない。
一般的なのは天正十年五月二十八日、京都近郊愛宕山での連歌会で、初句に「ときは今、あめが下知る五月かな」と光秀が詠んだ句を、土岐氏が今、天下を統治するときが来たのだと解釈し、この時点で、天下への野望が芽生えたのだとする。
しかし、野望にせよ、怨恨にせよ、あまりにもこの事件が矛盾に満ち満ちているのをご存知だろうか?まず事件の概要を述べよう。
天正十年五月十四日、家康が駿河を貰った御礼のために穴山梅雪とともに安土城を訪れ、信長自らの接待を受けた。そのあたりに中国高松城包囲の羽柴秀吉から援軍要請の使者が来る。秀吉は単独で毛利に勝てたが、あまりに大功を立てると信長の嫉妬を生むので、最後の勝利を譲るためとされている。信長は近畿の諸将に動員をかけ、自ら出陣を宣言、光秀も軍動員のため十七日、家康接待の任を解かれ、安土より京都大津の坂本城に戻った。
なお二十一日に徳川家康は織田信忠とともに上洛している。

光秀は五月二十六日、丹波亀山城に移る。なお二十七日、光秀は京都近郊愛宕山に参詣、一泊し、翌日二十八日、西坊において連歌会を開いた。このとき有名な「ときは今、あめが下知る五月かな」を読む。この句は天下とりへの大望の意なのか? しかし、大事前にそんな句を読むはずがないとする説もある。これらの句を神前に納め、光秀は亀山に帰った。
二十九日、家康は梅雪とともに堺を観光する。
織田信長は二十九日、安土を立ち、小姓二、三十人を引きつれ、京都に入った。他にも従者がおり、総勢は百人前後ではなかったかとされる。このとき神官吉田兼見、貴族勧修寺晴豊が出迎えのために出たが、出迎え無用との使者を受け、引き返した。
翌日六月一日、正親町天皇、誠仁親王の勅使勧修寺晴豊、甘露寺経元を始め、内裏を空にするほどの高位の公家、関白、前関白など四十人ほどが訪れ、僧侶、商人も同席し、茶、菓子が出、信長と数時間の歓談があったという。その後、信長は囲碁の名手の勝負を観戦し、寝入った。

光秀は六月一日、重臣を集め、謀叛を打ち明けた。完全武装の兵士らには京都まで信長の閲兵を受けに行くと説明したという。一万三千の軍は亀山城を夕刻に出陣、夜間行軍し、京都近郊老の坂で休息した。しかるのち、桂川を渡河、鉄砲の火縄の用意をし、本能寺に向かって前進させた。本能寺はいかなる理由か全くこの奇襲、包囲に気づかなかった。かって越前朝倉氏攻撃時、浅井軍に後方遮断されたことを気づくや、報復を誓い、単身馬一匹に飛び乗り、死地から逃げたほど行動力のある信長だったが、逃げ道は見つけられなかった。本能寺で「是非に及ばず」と言い、暫くの交戦の後、火炎の中で自刃したとされる。いかなる理由か死体は発見されなかった。

このあと、嫡子信忠も死んだ。信忠は二千の馬廻りを率いて、側の妙覚寺にいたが、本能寺の重包囲を見、救出をあきらめ、かき集めた五百人ほどで誠仁親王の座所二条御所に入った。何ゆえ大軍を前に少数で篭城などという無謀をしたのかよく解らない。光秀の軍は妙覚寺を焼き討ち、二条御所を包囲した。この後、交渉が行われ、誠仁親王と家族が退避する。その後、戦闘が再開、信忠の軍は頑強に抵抗するが、となりの前関白近衛前久の屋根に上った鉄砲隊からの銃撃により、犠牲が続出。ついに信忠も館に火をかけて切腹した。本能寺の戦闘は午前六時頃、二条城の戦闘は午前八時ころから一時間とされる。このあと明智軍は落ち武者狩りを行ったが、京都の治安はかなり早く回復した。光秀はすぐに近江攻撃の兵を向かわせたが、瀬田橋が焼き落とされたために、修理を命じ、自身は坂本城に戻った。
六月五日、光秀は信長の安土城に入った。
六月七日、吉田兼見が勅使として安土城に来、戦勝を祝す。
九日、光秀は再び主力と共に上京し、公家や町衆の出迎えを受けた。光秀は吉田兼見邸で何事かを話、朝廷、京都五山、大徳寺、兼見にも銀を献金する。下鳥羽に出陣。
十日、洞ヶ峠で筒井順慶の援軍を待つが無視された。
十一日、再び下鳥羽に布陣。

十三日、有名な山崎天王山で、中国から引き返してきた羽柴秀吉と織田信孝の大軍と戦い、敗北。勝龍寺城に引くが、夜間に脱出、山科小栗栖で土民に討たれた。首は家臣が隠したが、発見され、十五日に胴と共に本能寺に晒されたという。
十五日、安土城が謎の炎上で消失している。

よく知られた事件の概要。
しかし、この前半の精緻さと、後半の何も無さ、工夫のなさはどういうことだろうか? 光秀には謀叛後の計画は何もなかったのか? 織田家一の知識人といわれながら、味方のあてもなしに信長を殺したのか? しかし信長と信忠、その周囲への攻撃の仕方は見事ではないか? だった数時間で織田の中枢を消し去り、その本城安土は無血開城し、財宝を手に入れている。また美濃では安東守就なる将が挙兵し、稲葉一鉄と戦っている。さらに大阪の織田信孝四国渡海軍二万五千は変を聞き、パニックを起こして四散、七千ほになり、戦闘力を消失した。
あまりに前半は都合のいい展開、しかし後半は全く味方も、隆盛もなかった。この事件の持つ奇妙な矛盾は何なのか?これらがただの思いつき説、怨恨や、ノイローゼ説を生んだ。しかし、「真実」は、そこに矛盾は何も無いことを示している。

実は、明智光秀は、山崎天王山の決戦で勝てるはずだったのだから、、、。

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