本能寺の変、安土、天主閣とは何だつたのか?

■安土城天主とは何か?■

何故、織田信長は近江安土なる地に巨大で壮麗な塔を建設したのか? よく言われる謎である。信長の意志がその建築の全てに入っているとすれば、これほど精神構造、思想を表すものはないであろう。天道思想、あるいは何かの宗教的意味、例えば信長がこれから造ろうとしていた新宗教のシンボルとなるものだった、不死を求めた信長の霊的装置、など色々と言われているが、私は織田信長が戦国を統一した如く、あらゆる宗教をここに統一、もしくは習合させ、自分の政治に利しようとしたものではないかとも推理している。

安土城天主閣は、ある神のシンボルだったと見るのが正解ではないかと思われるのだ。まず、そこがもともと薬師如来関係の霊地であり、側の桑実寺の本尊もそうであることは前に述べた。信長の氏神牛頭天王は薬師如来の化形身であるが、山はその形から牛に良く例えられる。牛頭天王は須佐之男尊と同神とする見方があるが、別名は「武塔天神」である。

そこに蛇石などの多くの巨岩を運び込んでいるが、巨石に霊的なものが潜むと信じられていることは知られている。特に須佐之男尊など、出雲の神は石神であるとされる。確かに、牛の角などは石に擬せられることも多いだろう。そして須佐之男尊のかかわる神器、アメノムラクモノツルギ、草薙の剣伝説も、剣が鉱石から作られることを思うと頷けるものがある。

天主内部は地下一階、上六階、これが当時の限界なのか、それとも意図した階層なのかは解らないが、五階が法隆寺夢殿のごとく正八角形にして朱塗り、絵は天竺の仏教的素材、六階が正方形の平面、外部金箔、絵は中国の儒教的というのは何かあるのではと思われる。
となると他の階層にも描かれた絵、一階の墨梅、二階の花鳥、瓢箪から馬、麝香鹿、西王母、三階の岩・竹・松、竜虎、桐に鳳凰、中国の聖人許由、巣父、鷹、とまりの木も何か宗教的な意図があるようにも思えるのだ。

そして、近年の研究で言われ出した、西洋の教会の如く地下から三階まであったとされる吹き抜け、その底に置かれていたという仏舎利を納めた宝塔、能舞台、、。能と言えば、非常に霊的、宗教的な感じのする芸術である。

これらを「信長公記」の著者太田牛一のよく使う「天道照覧」「時刻到来」にかけ、天道思想の表れではないかという人がいる。だが、それだけなのか? むしろ天下統一をモットーにした信長はもっと単純にして、合理的な物を作ろうとしたのではないのか?

実は、その思想の片鱗とも思える逸話がある。信長は一五八一年、天正九年七月十五日、盂蘭盆会の夜、安土天主閣と総見寺にのみ様々な提灯を吊るさせた。その光の塔から出た信長が城から一キロほどの安土セミナリヨ、キリスト教教会堂までずらりと続く松明の光の中を歩き、宣教師ヴァリニャーニらの出迎えを受けたという行事である。

いったい、これは何なのか?どう見ても、西洋の神と日本の神を統合しようとしていたとしか思えない。相手はイエス・キリストであろう、
それは天主教[キリスト教]と朝鮮などで言われていた言葉を思うと納得できる。だが、日本の誰と? と考えると、どうもあの高徳、学問で知られる天神様、菅原道真公ではないかと思われる。

この二人、似ていると言えば言えるのである。まず、どちらも非業の最期を権力によって遂げた殉教者のような存在である。
どちらも死後蘇った、とされる。そして、人から神になった。
キリストの生誕日は、十二月二十五日、クリスマスであるが、菅原道真公の生誕は六月二十五日、死んだ日は二月二十五日である。そのことから二十五日はどの月も天神祭とされる故に、十二月二十五日と重なるのである。

日本において、本地垂迹説というものがある。日本の神は仏教の神が形を変えて現れたというものである。その視点で見ると、信長が自らを神であると豪語した総見寺の本尊は十一面観音なのである。これは菅原道真公の本地物、本体とされる神なのだ。

さらに、安土天主の下には内裏の清涼殿に似た建物があり、空中階段で繋がれているが、菅原道真公には延長八年六月二十六日内裏清涼殿に落雷したとの伝説がある。このとき、高位貴族数人が死傷し、生きている空中の道真公を見たとの伝説が生まれた。

そして、牛天神、道真公が丑年に生まれ、牛を可愛がったとの伝説から天満宮はそう呼ばれることがある。菅原道真公も牛頭天王[スサノオノミコト]も出雲出身の神であり、巨岩伝説と繋がる。

また織田信長戒名なのだが、死後、寛政重修諸家譜などの記録では、まず「天徳院」となっている。有名な長興寺の肖像画も裏には「天徳院」とある。そのあと「総見院泰巌安公」と変えられるが、
「天徳」なる元号は朝廷にあるのだ。調べてもらいたい。

天徳は、三年で終わっている。このとき、天災、旱魃、内裏でも色々な災いがあり、「天徳は、火雷天神の号にして忌むべし」とされ、改元された。火雷天神とは菅原道真公、あるいはその眷属をさすという。

あの平安期の天慶承平の大乱で新皇を宣言した平将門も「火雷天神」の旗を使った。なぜなら、その位は巫女に取り付いた菅原道真公の仲介により八幡神より位を貰った、別説は八幡神と菅原道真公の連署により天皇位を貰った、との神託によるものだったからである。

「安土」なる名がその平将門の首を祀ったとされる「築土神社」、別名「田安明神」から来た可能性もあることは述べた。平将門は菅原道真公の分霊との伝説もあった。

もっとも、誤解されないように言っておくが、菅原道真公が祟り神のはずもない。道真公は、藤原氏との政変に破れ、九州大宰府に流された後も天皇家、朝廷と国の平安、安泰を天拝山などで祈られて亡くなられたからである。高徳で、清廉潔白な人格、行動は知られ、後に北野や大宰府で学問、芸術の神様として祭られている。祟り神などにされて、怒られているだろう。
が、つまりは、その不遇の死に憤った人々によって、暫くの間、そうなった、朝廷にひどく祟った事になったということである。

問題なのは、大和朝廷と対立したとき、その世に人気ある天神様を利用しようとする人々も居ることだろう。信長は、そのタブーをやろうとした可能性があると疑われたのではないだろうか?故意なのか、それとも知らずに触れたのか、それは解らない。

だが朝廷と対立しているとき、天神様とキリスト教を習合させようという様な動きをしたり、十一面観音を本尊とする「総見寺」で生き神となり、「わし自身が生きたる神、および仏だ」と言えば、疑われるに決まっていた。

天主においても、内部に描かれた釈迦、孔子、老子、三皇五帝、仙人たちなどは、多くが人間から神になった「救世主」であり、天神様に通じるところがある。
菅原道真公、天神様には別名「唐渡天神」との別名があるのである。

いまひとつ、信長の正式な戒名は「総見院泰巌安公」であるが「修羅が帝釈[大石]を動かす」との言葉があるのだ。修羅とは巨大石を滑らせる道具のことであるが、大石[たいしゃく]が帝釈天[たいしゃくてん]、[過去にはインドで天帝とされた神、その地位は時代と共に下がった]、の読みに掛けられていることは無視できないだろう。
なぜなら、「菅原道真公はその慈悲の心は十一面観音を初めとする観音の如く、その破壊力は帝釈天のごとく」と勧誘に説かれるのが中世においては普通だったからである。大石と泰巌。

「安土」、奇妙な一致もある、、、「安」の字は「ウ」+「女」でウメ、梅は天神様の象徴である、土は「十一」と読めないこともない。ところで、イエズス会の字は「IHS」と書くが、「H」の横棒「-」の上に「+」が乗っているのである。「土」の字の如く。不思議な一致、と信長が思っても不思議はない。

「だいうす」、漢字では「大臼」「大宇須とも書く」地に教会を建てる。「石神」を意識していても不思議ではない、、、。京都にもダイウス町をつくり、宣教師の協会を建てた、、。

これら幾つもの事項から、私は「安土城天主閣」を西洋のキリスト教神と日本の神を統合しようとした巨大なシンボルだったのではないか?と考える。それは壮大で、まさに信長好みの考えだった、と思われる。

だが、それは決して朝廷や、仏教徒、神道徒の人々には受け入れられることではなかっただろう。なぜなら、織田信長の考えは、それまでの日本の旧文化、文化的創造物の全てに係わる問題にもなるのだから。
[そして、崇拝する天神様を南蛮の神と一緒にすることに、怒った人々もいたに違いない]

「西洋の神と日本の神を一緒に?、それから神、あるいは救世主になって、その先、いったい何をなされるのか?」 そう思ったとき、明智光秀、柴田勝家のこころに理解できない風が吹いただろうことは否定できない、と思う。
それは、また、自らを「第六天魔王信長」と豪語した男の過去への思いにも繋がったに違いない。

第六天魔王、すなわち仏教への挑戦者、破壊の神、、、ではないか、、、と、、、。

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検証、本能寺襲撃への道すじ! ひとつの名前!

■織田信長最大の真実■
天正十年六月十三日、明智光秀と羽柴秀吉の山崎天王山決戦日。この日は昔、京都などの祇園祭、牛頭天王の祭日。昔は六月七日から十四日まで。普通「天王」というときは牛頭天王を指す。この日と天王とつく場所が何故か決戦に選ばれた。

■検証・明智光秀の本能寺襲撃方法、計画はプロか、アマか?■
ひとつの人生を左右する事件、その手段には起こした人間の性格、履歴、知性、行動力などが反映することが多い。例えば泥棒、詐欺師、殺人者などは同じ手口を繰り返すことが多いという。なぜそうするかは本人もよくわからず、ただ、そうしていれば安心できるからだという。不思議な話だ。何かそこには運命めいたものの匂いすらする。では一国の運命を左右するような事件の場合は?精緻な傑作だったのか?ただのやっつけ仕事だったのか?

明智光秀は六月一日の夕刻丹波亀山城の東、野条より完全装備の一万三千の軍を発した。軍は三分隊に分けられ、午後九時だった。夕刻の進軍は敵地などでは危険なのであまりしない。勢力圏でもよほど急ぐ必要がある場合に限られる。部隊編成後、光秀は首脳を集め、軍議を行っており、ここで重臣、とくに斉藤利三、明智秀満らに謀叛を打ち明け、念入りに主旨を言い含めた、という。亀山城から京都までは二十キロ足らず、夜間の移動、早暁の本能寺襲撃、その後、側の妙覚寺の織田信忠を討つとの手順になっていたという。一万三千の軍は二列縦隊になればおよそ七キロ。京都近郊老の坂に午後十時半、その先の西国と京都への分岐点沓掛に十一時から十二時ころに到達、このとき小休止し、兵糧を取らせた。

その後、先鋒隊長安田国継を発進させる。軍を四・五キロ前進、京都桂川西岸で戦闘用足半草履にさせ、連続射撃用の火縄を鉄砲隊に用意させる。桂川を渡った時点で信長、信忠討ちの布告が兵になされ、部隊は千本通り、大宮通、姉小路通り、新町通りに別れ、二・五キロ北進、午後四時には大半が本能寺に到達、攻撃した。
先陣を指揮したのは斉藤利三で、「旗さしものが引っかからないように、木戸は押し開いて通るように。思い思いの道を通り、本能寺の森、サイカチの木、竹やぶを目指せ」と言ったと「川角太閤記」にある。織田信長、信忠は全く気づかず、この後本能寺、二条城の戦闘で切腹する。
全ては計画的なのか? ただのアマチュアなのか?

私が時々思うのは、光秀が怨恨、野望いずれにせよ、京都で信長を殺す必要が絶対にあったかという疑問である。過去に幾つか主殺しなどというものがあるが自城への誘殺、毒殺、あるいは一見それとは解らぬような事故死、戦死などというものがよく使われているような気がする。例えば、信長が毛利としか思えない部隊の奇襲で、原野で死んだ、というシナリオでも動機がただの個人的な怨恨、野望ならば別にかまわなかったような気がする。だが、光秀は名を汚すにしても、京都本能寺という場所、其処での襲撃を選んだのであり、そこには何かそうでなくてはならなかったものがあったのかもしれない。

検証として、まず老いの坂、沓掛での小休止を見てみよう。道の分岐点で兵を小休止する。そしていきなり京都に向かう。ここで何らかの報告を受けたのは間違いない。するとここまでは中止可能だったのでは? となるとよく言われている別方面から逃げ道を塞ぐために京都に入った分隊は無いと考えられる。そして、この後、明智軍は道に迷わず行動している。どう考えても誰か京都に詳しい道案内が数人来ているのではと思える。
この変で、何が一番重要なのか、信長が女遊びなどに行かず本能寺に確実にいることだが、六月一日、内裏を空にするほどの貴族の訪問、信忠、京都所司代室井貞勝の挨拶、囲碁の名手の観戦をし、彼は確実に本能寺に居た。それを確実に知ったからこそ、迷わず行動した、としか思えない行動である。

また斉藤利三の言葉にあるように、当時町境には盗賊よけの木戸があった。この盗賊よけの木戸の開閉のことは研究家、細川廣次氏の本「信長は誰か」新人物往来社に詳しい。が、これらの木戸は大軍には大変な障害になる。あの有名なナポレオンのワーテルロー会戦の時には、ちょっとした垣根、切り通しの小路が大軍の大変な通行障害になって多くの犠牲者が出た。ところが、光秀軍にはそれらが全く邪魔になっていない。となると? これらの道案内は京都木戸の開け閉めにも顔が利くとなる。

さらには桂川を渡った時点で、戦闘用草履、火縄の用意をさせた兵士らが動揺をしていないこと。
街中に宿泊していた信忠の馬周りにも気づかれていないなど、アマ、やっっけ仕事にしては不自然な事項が相次ぐ。いやむしろプロの手口ではないか?

また火事の問題もある。当時火事はすぐに燃え広がり、非常に恐れられた。幾度も京都は火難に遭っている。これら火と煙は実は逃げるにも都合がいい。信長が火を点けよと命じたのも、そういう意図があったからかもしれない。ところが、本能寺、妙覚寺、二条城と炎上したにも係わらず、何も周囲の民家に燃え広がっていないことである。特に本能寺は燃え尽きるまで放置されていたというのだが。この点は、どういうことなのか? この後、残兵狩りが明智軍に行われている。敵がまだ居る中で明智の兵は消火活動をしたのか? 或いは完全武装の殺気に満ちた兵士らがうろつく場所、そこに町衆でもすぐに行ったのだろうか?

また二千の馬廻りを率いて妙覚寺に居た嫡子織田信忠が、京都から逃げられていない。私は前に沓掛での転進前に、逃げ道を塞ぐために別道に動いた別働隊はいないだろうと書いた。ではなぜ逃げられなかったか、それは木戸などが閉まっていたり、何処かからか弓矢などで射たれたからかもしれないのだ。その警戒から、二条城に篭ったのかもしれない。

ただ信忠が五百ほどの兵士を集め、篭った二条城攻撃は、明智軍にしては少しお粗末ではある。隣の近衛邸の屋根から鉄砲を乱射しての力づくである。だが、これは当時誠仁親王の座所であり、禁裏と同じ扱いだった城に立て篭もるなど、不敬、非常識なことをするはずがないという思い込みがあれば別に不思議なことではない。当時、天皇は天子だったのであり、まさに名を汚すような逃げを武将ならするはずはない、という前提が頭にあったのではないだろうか。

結論として襲撃はかなり完成されているのでは、京都に味方が居たのは確実ではと思える。普通は独裁者信長は常に巨城と五千の兵に囲まれている。逆に言えば、信長は五千の兵士、親衛隊から離れることはあまりない。これらの兵は野戦などでは信長ひとりを守る、逃がす為に常に訓練を受けているのであり、影武者、おとりの役目も喜んで受け入れるだろう。家康、信玄などにも敗戦時、喜んで成り代わって死んだ者がいた。信長は名馬一匹あれば、、、という立場である。だが、京都では全くそれが出来なかった。信長も、彼に何かあれば織田全軍の指揮をとれる織田信忠も何故か京都から逃げられなかったのであり、その理由のひとつとして、京都市民の多くが彼らを嫌っていたのではないかとの推測もある。信長は上京都を焼き討ちし、かなりの被災を出したこともあるのだ。

私はひとつの名前に注目する。明智軍先鋒隊長「安田国継」の名前である。織田信長一人を逃がせば全ては崩壊するのだから、明智軍先鋒隊は光秀に主旨を含められた必殺隊だった筈である。その彼が後に改名している。「天野源右衛門」と。光秀は土岐源氏だった。右衛門府、左衛門府、ともに内裏の門を守るとの役職である。そして辞書には「御門・みかどと読む。帝のことである」と言葉がある。

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「真相! 過去の無い男、明智光秀」

織田信長の赫々たる戦績、武勲は知られている。
ところが明智光秀には四十歳前の過去がない。実はかき消されたかのように無いのである。彼が歴史の舞台に出てくるのは信長が美濃を制圧してからで、永禄十一年、将軍候補足利義秋[義昭]の使いとして登場する。当時、越前に身を寄せていた義昭は、態度を明確にしない朝倉家に業を煮やし、信長に上洛への援護を求めた。これが信長の天下への飛躍になったことは知られている。そのように需要な使者であったのだから、それなりの身分と礼式を知った人間でなければならなかっただろう。でなければ将軍候補の使者に選ばれるわけがない。

ところが明智光秀には四十歳前に何をしていたのか過去が全くないのである。彼自身によれば美濃土岐氏の出身となり、諸国を巡って武者修行していたとなる。しかし、それの書かれた「明智軍記」なる資料は誤謬多く、全く信用できないことが知られている。修行を示す書状などの確固たる証拠は全くない。出自はともかく、若年から中年まで何をしていたのか全くわからないのである。ここが少し明智光秀の人気に係わるところかもしれない。日本人の特質として、一から十まで経歴がはっきりしている人間を好む。空白の経歴など持っていると何をしていたんだ?と疑いの目で見ることになる。
しかし、驚くべき事だが明智光秀は信長の家臣の仲で一番最初に元亀三年、近江滋賀郡で城持ち大名になっているのである。古参の柴田勝家、木下藤吉郎秀吉より先なのだ。
信長の性格は、一面、かなり猜疑心が深かったという。その男がまさに新入りを京都近くの坂本城に据えているのだ。後に位、惟任の名、日向守まで与えて、、、。まさに不思議な話ではある。といって、光秀に何か凄い武勲があったのかというと、それほどのものは無いように思われる。彼は京都や堺で何か交渉、工作を担当していたらしいのだが、、、。

何にせよ、大名、城持ちに抜擢したということは、信長には何か光秀の過去について知っていた重要なことがあったと思える。それ故、京都近郊に据えても大丈夫と考えていたとしか思えない。或いは、何か、どうしても据えたい理由があったのだ。それは何なのか? 私はここにかなり重要なことがあるような気がしてならなかった。

いまひとつ、この後の天下人豊臣秀吉のこともある。秀吉にとって明智光秀は主君を討った極悪人のはずである。いや自分を正当化するためには、光秀は徹底した悪人の方が都合がいい。不明の過去時代があれば怪しいと徹底して調べるだろう。何かあれば暴いて貶める。もしすぐには解らなくとも賞金でもつければ誰かが密告して来たに違いない。だが、である。何もないのだ。確かに天下を狙った悪人とされているのだが、それだけなのである。まるで、権力者秀吉がかき消したのではないかと疑われるくらいに史料はない。

仮にも近江と丹波に大名として城を持った男にしては奇妙すぎる疑惑である。誰でも大名になったとき、経歴くらい自慢したいのではないか? 自分はこうやって出世したとか、これが出世のきっかけだなどと書き残したいはずである。だが、光秀の場合は書いていない、ただ自分は石ころのようにつまらない存在だったと言ったという。

私はこの奇妙な事実には大いに好奇心が動いた。もし光秀の過去に何かあるなら、その理由は二つしかない。何かの犯罪に絡んでいたか、それとも過去がわかると天下人秀吉などにも都合の悪いことになるからであろうと。そして、そのあとの徳川時代にも明らかになっていないとなるなら、家康にも何か都合の悪いこと? それほどの大きな秘密など世の中にあるだろうか? 事実、私はその想像を楽しんだ。「明智光秀の謎の過去には天下人すら隠したいような秘密がある?」そうやって文献を漁っていた私はひとつの興味深い言葉に当たる事になる。
それは今は亡き作家小林久三氏の「光秀の過去は僧侶だったのではないか?」との言葉である。小林久三氏は光秀天海説、明智光秀が影武者を使って生きのび、後に徳川幕府の黒幕、怪僧とされる南光坊天海になったという説を支持しいていて、これを補強する意味で軽く言っているのであるが、私には衝撃だった。というのは光秀が城を与えられた前、ちょうど京都鬼門封じのために建てられたという比叡山延暦寺が信長の大軍に焼き討ちに遭い、消滅させられているからである。そしてその後、光秀の与えられた坂本城はその近くである。そして京都の人々は病的なくらい鬼門[丑寅]方位を災厄が来るとし、恐れるというのだ。家の鬼門方位には何も作らなかったり、祠や神を置く。あるいはわざと凹んだ塀を作り、鬼門は無いとする。今でも凶方位として何か御祓いなどをしつこくするという。

比叡山では三千人の僧侶、老若男女を殺したという。信長も僧侶を多く殺したという事実を少し気にしていたのではないか? そして周囲の家臣も? するとその霊らを慰めるために誰かその方面に力のあるものを? 僧侶? いや僧侶の過去を秘密にするだろうか? 神官? あるいは災いを払う者としての陰陽師? そういえば信長の氏神、生土神とされるのは津島牛頭天王社ではないのか? 牛頭天王とは鬼門[丑寅方位]のヌシとされる神であるとも言う。ならば、神官? 光秀の過去は神に仕えるもの? だが何処の? 私はその独自の想像を楽しんだ。
だが、今から思えば、この想像は当たらずといえども遠からずだった。なぜなら、明智光秀背の過去が神官、或いは陰陽師と仮定すると、彼が新参ながらも織田信長に重んじられた訳、なぜ出陣前の五月二十八日に愛宕山に登り神社に参拝したかの理由、その後の行動の日付にもいろいろな意味、奇妙な一致が出てくるからである。まず次の点だけここでは述べておこう。

「ときは今、あめが下知る五月かな」と有名な初句を光秀が詠んだ「五月二十八日」、
この日に降る雨には特別な名前があること。

「六月一日」 夕刻、明智軍、丹波亀山城を出陣。
「六月二日」 京都本能寺の変
「六月十三日」 山崎天王山での戦い。
「六月十四日」
「六月十五日」 安土城天主閣、謎の炎上。

上の日はある神に関係する特別な日なのだ。その不思議な一致に明智光秀の過去を調べていて気づいたのは、おそらく私が日本で最初ではないだろうか? 
 ヒントは、「寅薬師」。

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